5人が本棚に入れています
本棚に追加
いよいよ目蓋が閉じるという時、小さな囁き声で、「ねえ、寝ちゃいやだよ」と揺り起こされた。冴子の色を含んだ声に脳があっという間に覚醒する。目の前に冴子の顔がある。にこにこと嬉しげだ。僕はこの笑顔に覚えがある。おぞましい寒気と抱き合わせの笑顔だ。この笑顔はあの男に見せたのと同じ表情だ。妙に色っぽい、「女」の微笑。今まで一度も僕には向けたことのなかったそれだ。
怖気立つ。彼女はとっくに「女」だった。大学生ともなれば平成生まれの若者の多くは性体験もあろう。しかし、彼女については明らかに事情が違う。お互いに初めてだから結婚するまではしたくないと言ったのは彼女だ。
女友達の言葉を思い出す。「口ではそうは言っても、求められたいのが女ってもんだよ。生真面目にそんなのを守っていたら他の男に食われちまうよ」不安が原因か、あるいは自尊心の問題化は定かではないが、どうにも彼女の主張では、彼氏に求められることで彼女としての自分が形成されていくのだとか。
冴子に限ってそのようなことはあるまいと思っていた。けれど、やはり冴子も女には違いなかった。僕らしくもないが根拠もなく、もう冴子は僕を愛しているのではないと気付く。
「冴子……。やはり僕としたいか?」
「したいけど、そっちが嫌がるでしょ?」
彼女は平然と答えた。しかし、僅かに目が泳いだように感ぜられた。目は口ほどにものを言うと世がいう。彼女の目にははっきりと物が浮かんだようである。
冴子はあの男と関係を持っている。そして、どういう理由によるものかは知れないが彼女は僕とも関係を持とうとしている。その瞳の仄暗さを見るに、何か自分を慰めるためのように見える。
彼女の姿を今一度刮目して観る。腰をひねり吐息は艶めかしく、体は僕にしな垂れかかっている。頬は上気しており、呼吸の間隔は短くなっていく。
それに対して、僕は急速に心が冷めていく。冴子が汚らしくて仕方ない。
最初のコメントを投稿しよう!