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この瞬間なにかに直覚した。人はその生きようでいくらでも汚らしくなれるものだと実感を持って認識する。それは外見の美醜にまで影響を及ぼす。仮に冴子の浮気を知らなかったとてもこの性的な浅ましさを前にすれば彼女に対する印象は変ることは明らかで、加えて自らの約束を違わんとする様には嫌悪感さえ沸く。
「喉が渇いて仕方がない……」
僕の渇いた声は、店内の静かさのためにいやによく通る。ここには僕と冴子しかいないのではないかと錯覚さえしてしまいそうだ。彼女は、また、微笑んだ。その微笑みはいつもの愛嬌ある微笑みとは違った。これは母性によらしむる、征服感か何かか。自分より力のない、あるいは立場のない者に頼られることによる、優越あるいは共依存的な安堵だ。冴子は今僕より立場が上であると、無意識か意識的かは別に、はっきりと認識している。そうして僕を見下してこそ生まれる微笑である。
「それじゃあ、何か飲み物を持ってくるね。メロンフロートでいいよね」
ええい、よせ、そんな目で僕を見るんじゃない。心の中でいっぱいに叫ぶ。どだいおかしいじゃあないか。「悪い事」をしたのは僕じゃあなく、冴子じゃないか。僕を見下すな。
冴子がスリッパに履き替えようと入り口の前に腰を丸めて屈みこむ。その背中の丸っこさよ。髪のはだけて、ちらりと覗く、その白いうなじ。彼女の父は秋田の生まれで、その血と普段からの不断の手入れのために美しい白い肌をしていた。その肌にぷかりと浮いた、赤青い痣。口付けの痕。
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