一日目

1/2
前へ
/4ページ
次へ

一日目

うかつだった。 取引先のビルを出た瞬間、おれはそう思った。 ここ数週間なかったほどの大雨だ。 おれは三流商社マンでおまけに独身だ。当然、折り畳み傘などという厄介な代物は持っていない。 まいったな。 周りの人々は、何事もなかったかのように傘を広げて足早に去っていく。 朝、一流のサラリーマンは、ニュースと天気予報をチェックする。 ジャイアンツの勝利に小躍りしているなら、そいつは二流だ。 そしてこのおれのような三流は何をするか。決まっている。少年ジャンプを読むのだ。イェイ。 目の前に小さな喫茶店がある。 このビルにはいつも来ているが、こんなところに喫茶店があるとは知らなかった。 雨は容赦なくおれを襲う。 このままでは、箱船に乗り遅れてしまう。おれは思い切ってその場を飛び出し、喫茶店に駆け込んだ。 カラン。 今時珍しい。ドアベルの音色はおれの心に響いた。十八世紀のパリを想起させた。 おれの前世はロベス・ピエールだったのかもしれない。 「いらっしゃい」 マスターは、この上なくマスターだった。 丸眼鏡と髭とコーヒーカップがこれほど似合う男、そうはいまい。 おれはカウンターに腰掛けると、アメリカンをオーダーした。 ミルクと砂糖は一杯ずつ。二十代前半の化粧と同じだ。 「お待たせしました」 豆から挽いている。立ち上る香りは、おれの鼻孔をくすぐった。 最近は、喫茶店と言ってもインスタントや、つくりおきを出す店も多い。 おれにとってコーヒーとは豆を挽くところから始まり、口腔が酸味で満たされることで終わる。 おれ以外の客と言えば、老紳士が一人と学生らしいカップルが一組、あとは窓際に若い女が一人いるだけだ。 喫茶店としては一流と言える。 あまりにも繁盛しすぎて客の出入りが激しいようなところは二流だ。 三流は言うまでもないが、店員が少年ジャンプを読んでいるようなところだ。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加