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庭先へ出ると、爽やかな空気があたしを包み込んだ。
ようやく秋らしく涼しい陽気になってきた。
今朝なんて、薄い肌掛け布団じゃ寒いくらい。
「姉ちゃん、帰っとったんか」
人口池のほとりで亀に餌をやっていた浩平(こうへい)が、あたしを見つけて声を上げた。
「うん」
「なに、それ?」
「これ? 肥料」
あたしは手に提げた小さなビニール袋を浩平に差し出した。
受けとってしげしげと眺めたあと、突き返される。
「そんなんで元気になるん? いまさら。もう枯れる寸前じゃないんかいね」
「知らん。やってみんとわからんじゃろ」
あたしは冷たい浩平を池に残し、庭の片隅にぽつんとある小さな鉢植えの前に座り込んだ。
ハサミで大きく口を開け、小さなスコップを使い丁寧に肥料を与える。
鉢の中の土が、肥料の灰色に染まっていく。
真夏の暑い日、ホームセンターでトイレットペーパーを買った帰り。
通り道である園芸コーナーで、この鉢植えと目が合った。
『夏おとめ』
プレートには、浴衣姿の乙女の襟足が印象的なイラスト。
淡いピンクの、恥じらう頬のように可憐で小さな花びら。
なぜだかわからない。
普段園芸には縁のないあたしだったが、衝動的に『夏おとめ』 を購入していた。
それから真夏の間、例年より一際強い陽射しを受けながらも、あたしの『おとめ』は華麗に咲き続けた。
それなのに、近頃は色がぐんと褪せ、花びらにも力がない。
花が咲いてもすぐ枯れてしまう。
『夏おとめ』だし、今年の寿命だと思えばそれまで。
でもあたしは諦めたくなかった。
あたしはこの『おとめ』を、この家に預けて出て行かなければならない。
もうすぐあたしは、東京に出て違う家の人間になるのだから。
「頑張っとるな」
突然背後から声がして、振り向くと父がいた。
もう秋だというのに、甚平に下駄。
「寒くないん? そのかっこ」
「いや。むしろ暑いくらいじゃ」
首筋の汗をタオルで拭いながら、父は留まることなく歩いていく。
去年定年退職した父は、いまは庭いじりが趣味兼仕事。
暇さえあれば庭にいる。
人口池も、器用な浩平の手伝いを受けて父が造ったものだった。
あたしは無意識に父の背中を目で追ってしまう。
「感傷か、姉ちゃん」
池のほうから目敏い浩平の声が飛んできた。
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