【第1章】

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   スーツケースの鍵を開け、彼女は出発時に入れた物と寸分違わぬように見える中身を見回し、目的の品を手に取った。  決して華美ではないが、上質なヴェルヴェットで覆われたジュエリーケース。  彼女はその蓋をそっと開けると、今回のお宝をウットリと眺めた。  ……それは、滅多にお目にはかかれない、天然のピンクダイヤのルース(裸石)。  しかし今回のアニスの本来の標的は、コレではなかった。  もう引退間近と言われている山師が、今まで貯えてきた財産を全て投げ打って手に入れた鉱山がアフリカにあった。  だが、その鉱山はかなり昔にダイヤモンドが産出されていて、もう掘り尽くしたと業界の皆が思っていた。  しかし彼だけは、その山の鉱脈を丹念に調べ上げ、まだ眠っている貴石があるはずだと信じ、その鉱山の採掘権を入手した。  掘れども掘れども鉱脈に当たらない……。  彼の活動資金が底をつこうかと言う最後の発掘で、彼の雇った作業員はついにダイヤモンドの鉱脈を掘り当てた。  その話は瞬く間に業界中に広まり、全世界のバイヤーがダイヤの質に注目した。  結果を言うと、本当に最高ランクの物がかなりの数採れたのだが、ダイヤの研磨作業に入る前に、彼と昔馴染みのバイヤーがそのダイヤを全て買い占めると申し出てきた。  老いた山師は他に強いコネもなかったので、昔馴染みのバイヤーの甘言に乗せられ、原石を研磨する前に契約を結んでしまった。  その金額は、本来の相場の1割にも満たないような酷い物だったのだが、昔の相場しか知らずにいた彼が後から契約書解除を申し出てもバイヤーは取り合わなかった。  そのバイヤーも、駆け出しの頃は彼にとても世話になっていたと言うのに、業界で揉まれているうちにいつしか゛悪徳バイヤー゛として裏で囁かれてしまうような人物に成り下がっていた。 「お年寄りを騙して自分の懐を潤すなんて……許せない!」  この情報を入手した時のアニスを、いつもエアロビクスのスタジオでの笑顔しか知らない人が見たら、別人かと思っただろう。  彼女は老人と子供には特に優しいのだ。 「このバイヤー……二度と業界で生きて行けないようにしてやるわ……」  アニスはそう呟くと、すぐに今回の仕事の準備にかかった。      
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