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家康に富士見遊覧であの様に行き届いた接待をされたら信長としてはそれに勝る饗応で応えなければならい。
(三河殿は…京の公家達達の様なきらびやかな饗応では喜ばぬであろう…。)
信長は三河衆の棟梁である家康が質素を旨とし
『武門たるもの質素こそ美徳なり』
と平素から配下の処将達に漏らしている事を知っていた。
しかし…信長は中央を抑え実質天下人へ最も近い存在となった。
いかに三河が山深い民から興った集団としても、これを機に上方の文化と言う物に触れさせおく良い機会であろうとも考えた。
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