命運尽きたり。

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『東国の事は三河(徳川家康)殿にお任せする』 それが信長の構想の基本であった。 東国には武田信玄と言う強力な大名がいる。 武田から尾張を護る言わば防波堤の役割こそが徳川家康に求められた信長からの要望であった。 三河を防波堤として東国を防ぎ我らは西を目指し中央(この当時日本の中心は京であった)にいち早く強力な覇権を打ち立てる…。 信長は桶狭間の合戦で今川義元を破ると念願の美濃を手に入れその主城である稲葉山を岐阜と改名した。 信長はこの地に自由に市を建てさせ城下に他国から商人や客を大量に呼び寄せ人・物・金が絶えず流れて行く流通経済を興した。 当時の大名達はその領内に殆ど無用と思える関所を設け僅かばかりの通行料を徴収し、それが為に大きく人の流れが抑制された。 さらに市などは自由に建てる事など許されず当然ながら商業が発展する事を領主自身が阻害する結果となっていた。 少しばかり尾張は違う。 信長が生まれた尾張は昔から当時の最大の港都市、堺との海上貿易や海上交通の要衝として商業が盛んに興った土地である。頭脳明晰な信長は幼き頃より小さな商品がその数倍もの対価の金銭に化ける商業の魔力と言ったような物を本能的に理解していたのであろう。 信長も、そして後に天下人となる豊臣秀吉も流通経済によって国は富むという事をしっていた。 秀吉の後に天下人となった家康は……。 現在では尾張も三河も同じ愛知県ではあるが… 物の考え方は全く事なった。 三河者は働き者。 当時、誰もがそう言った。 彼等は根が農耕主義であり正に『一所懸命』の言葉の如く集団であった。 美濃を平定した信長の元に一人の男が拝謁を求めてやって来たのはそれから暫く経ってからの事である。 何やら…聞けばその男…取り次いだ門番に『越前から来た者だ』とだけ告げた。 『この信長に何の用ぞ』 上座に片膝を立てその男を見据えたまま信長は続けた。 『われは越前から来たらしいの。構わぬ。おもてを上げい』 平伏していた越前からの男は顔を上げた。 『某は…現在越前朝倉家の客将となっております明智十兵衛光秀と申しまする』 (ほぅ…朝倉の) 信長は身体を乗り出した。 『その朝倉の客将が何の用で参った』 『室町幕府の落胤でおあします足利義秋殿を掲かげ、京に織田殿の御旗を立てて頂きたく越前より参りました』 これが信長と光秀の最初の出会いであった。
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