愁傷

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 思い出さないように栓をしていたのに、もう止まらない。耳をふさいでも目を閉じても、何も考えないようにしても、彼女との過ごした日々の記憶は頭の中で映画のように再生されていく。僕の声がする。彼女の声がする。楽しそうに笑いあっている。やめろ、と僕は叫んだ。けれど、それは声にすらならない。ただ小さな嗚咽が漏れただけだった。  ああ。そうさ。最初から分かっていたんだ。僕が何で真夜中に目覚めたのかを。たた。気付きたくないだけだったんだ。その理由に。その事実に。それを認めてしまったら、彼女が居ないのを認めてしまいそうだったから。  思い出と共に僕の瞳から涙がこぼれ出す。僕は頭を抱えてうめく。胃や腸が千切れるほど痛い。ああ。なんて僕は弱いのだろうか。僕は何一つさえ手に入れる事は出来なかった。手に入れたと思った瞬間、指と指の僅かな隙間から零れていく様な水みたいに、それは通り抜けていった。そうして僕の手の平に残ったものは、僕が愛していた彼女の儚い幻想、彼女をもう一度抱き締めたいという願望とそれが永遠に叶う事は出来ないと言う事実、そして、僕の心をひたすら締め付ける悲哀の感情だった。  そう。もう彼女はこの世界のどこにも存在していなかった。  彼女が死んだのは僕が原因と言うわけでは無い。――だけど。どうしても。どうしても僕はこう思ってしまうんだ。――僕は一体何をしてきたのだ、と。僕がこれまで歩んできた人生は一体なんの役に立ったのだ。僕が経験してきた事は僕が生きていく為のモノなのだろう。だけれど、その僕が生きていく為の経験は僕を生かす為だけのモノであって、それは何一つ彼女の為になりはしなかった。何一つ彼女を死という運命から助け出すことは出来なかった。何も出来なかった自分は本当に。  なんて、無力なんだろうか。  なんて、哀しいんだろうか。  なんて、虚しいんだろうか。
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