フローヴァルのち馬車

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主に精神的な疲れから、扉に寄りかかり一息ついてるとタオルが頭に降ってきた。 「それで汗を拭け。まったく…いい加減に相手をしてやったらどうだ」 お玉を片手に店長さんが半ば呆れながら言う。 「すいません…だが断ります」 幾ら店長さんの言葉でもそれは拒否させてもらう。何故なら奴は歴とした女性なんだから。 奴と初めて会ったのは…そう、俺が目覚めた三日後の薬草採りのクエスト中だったかな。 その日は一人で籠を背負いながらせっせと薬草摘みに励んでいた。 薄暗い森で籠一杯になるまで薬草を採って帰ろうとしたその時、ふと空を見上げると空から人が降ってきたのだ。 それは音も無く地面に降り立ち、俺を見ながら嬉しそうに笑っていた。 奴の第一印象は美人の一言だった。ややつり上がった目に腰まであるストレートの黒髪、そして紫陽花らしき花の模様が特徴の白い着物。 その色白で整った顔立ちはまるで江戸時代からタイムスリップしてきた美人娘であった。 その凜とした姿にこういう人を大和撫子と言うんだなあ、なんて思った時期が俺にもあったんだよ。 けど奴は俺の幻想を一瞬で打ち崩した。 急に俺を舐めまわすように観察し始め、一通り見終わると表情が嬉々とした、けど悪寒が走るほどの悍しい笑みへと変わったのだ。 その豹変ぶりに思わず1歩後ずさった俺に奴が言ってきた一言は今でも鮮明に耳に残っている。 「私と…やらないか?」 この時、既に俺に勝負を持ち掛けてくる人はいたから意味を勘違いすることは無かった。 けど女性で、しかもあの青いツナギを着たあの人と同じ発音で言われたら誰でも言葉が出なくなるのは当然だろう。 その後、落ち着いた俺の「だが断る」を聞くと今日のように自分にとって良いほうに良いほうに解釈し、あの日は日付が変わるまで森の中を逃げ回ることを余儀無くされた。 奴のあの異様なまでのしつこさとポジティブシンキングは避難所こと店長さん在中の天心が無ければ押し負けていただろう。 「…うん、やっぱ無理」 それが俺の結論だ。 「まあ無理にとは言わないが…千夜は昔からああだからな。美人になったがあれが玉にキズってところだな」 昔のギルドを思い出したのか店長さんは楽しそうに笑いながら仕事に戻っていく。 しかしこの店長さんの何処が怖いんだか。 とりあえず俺はパートのおばさんに挨拶し二階の部屋へと向かった。
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