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もう直ぐ、もう直ぐ着く。だから――。
男は真っ白にコーティングされた綺麗な壁にも、鼻に突く臭いも気にせず。更には走る事を禁じるポスターをも無視して走り続ける。
もうどれ程走ったのだろうか。学校で知らせを受け、バスもタクシーも使わずここまで走って来たのだ。必然、男の額や鼻の頭には汗の玉が無数に吹き出し滴となって飛び散り、息も切れ切れ。
それでも男は走り続ける。たった一つの事を成し遂げる為に。
だが―――。
『ピーーーーーーー。』
部屋へとたどり着いた男の耳に真っ先に飛び込んで来たのは、非情にも手遅れだと言わんばかりの、そんな音だった。
男は呆然と立ち尽くす。すすり泣く声も、白衣を着たおっさんの伏せた顔も、ベッドで安らかな顔をして『眠っている』女の子の顔も、何もかもが信じられなかった。
「お……い……桜、桜…桜!」
ベッドへと駆け寄り、桜、桜と何度も男は叫ぶ。目からは涙が溢れ、幾度となく拭っても消える事は無かった。看護師も事情を汲み、注意もせずにただ顔を伏せる。
「う……ああ…っ。」
何も考えられずに男はうなだれ、叫び、涙する。嫌な予感はしていたのだ学校で呼ばれた時から。しかし一縷の望みはあったのだ。さっきまでは。
「何で……目が開かねーんだよ……っ。」
いくら揺さぶっても桜と言う少女は目を開けず、寝息もたてていない。
つまり魂はもうこの世には無く、肉体だけがここに残っている。『死』と言う状態。
「くそっ!くそっ!」
男が強く掌を握りしめた時、中で何かがピシリと音を立てた。
しかし、四十代半ばといった、恐らく母親であろう女性に肩を叩かれた男は直ぐに脱力し、その掌の中の物は床へと滑り落ち、からん。と音を立てた。
それは、古く良く使い込まれた――ギターのピックであった。
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