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(いや、待て。あの鞄を持ち去り、中身を改めたあと、駅員室にでも届ければなんら問題ないのではないか)  心の中に、ぽか、と浮かんだその言葉に私は急激に勇気図けられます。問題はない。たとい疑われても逃げ切る言い訳をする自信もございましたし、こう、何か面白いことをと求めていた矢先のことでしたので、覚悟を決めるのにそれほど時間はかかりませんでした。  私は小説を書くのを好んでいて、いつかはそれで金を稼ぎたいと思いつつ、今は趣味のように書いておりました。先ごろ、佐藤春夫の「或る文学青年像」田山花袋の「蒲団」など、自然主義の作品に親しんでいたため、実際の面白い物を求め、欲を言えばそれを作品にしたいと考えていました。  そうでなければこのような出来事はとくに何思う無く放置していたに違いないのです。この時、私にはそれが千載一遇のチャンスに思われて仕方なかったのです。  汽車はやがて本厚木に至りました。ここはそれなりの都会ですから乗降が他より激しくあり、例のブリーフィングケースの下辺りの乗客もほとんど入れ替わってしまいました。 (おお。これはいよいよ間違いないぞ!)  興奮はさらに高まり、生唾を飲んだように思います。色々の想像が溢れ、興奮に拍車をかけます。例えば日記が入っていたらどれほど面白いでしょう。「斜陽」のように作品を書き上げるのも面白いでしょう。財布が入っていたらどうだろう。中身の何割かを抜き取って駄賃にしたって、誰にばれるわけでもないのですから美味しい話です。
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