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勢い良くドアの開く音が響いた。
今まで誰も話しかけた事すらない撫子の君。
今、その人が居る美術準備室の扉が開け放たれた。
一同一斉に扉を開けたその人物に視線を向ける。
あまりに急な事に、誰しもが言葉を発することも動くことも出来きず、ただただ見ているしか出来ない。
「あさ…か?」
もしかして…
「…-ゃん」
「………」
安積の視線は真っ直ぐに撫子の君へと向けられるが、撫子の君は椅子に座ったまま振り向く素振りも見せない。
「ーいちゃん…だろ?」
良く聞き取れない。
その声は比較的近くに居る植野でさえも聞き取れないほど小さく弱々しいが、班乃と撫子の君には充分伝わるものだった。
しかしその声が聞こえている筈の撫子の君は、口をつぐんだまま返事をする様子もない。
ただ、キャンパスに向かっていた手はピタリと動きを止めていた。
『…覚えてたんですね、安積』
恐る恐るといった様子で歩みを進めた安積は、教室の真ん中あたりまで辿り着く。
撫子の君との距離は2mもない。
「…やっと会えたっ!聖兄ちゃんっ!!」
震える声で絞り出したその声は教室内に響き渡り、まるで母親とやっと会えた迷子の子供のような、そんな切ない響きすら含んでいた。
その発言は撫子の君を見に屯していた生徒達にも勿論届き、一様に顔を見合せざわざわと騒がしくなる。
「…今の、どういう事?」
「わ、わかんない。でも、今“兄ちゃん”って…言ってたよね?」
自分達の側へと移動してきた植野も、鈴橋と困惑の隠せない表情をつき合わせながらそんな会話を交わしていた。
時が止まったかの様に誰も動かない。ただ、全員の視線は安積を通りこし、撫子の君へと向かっている。
その人物はたっぷり時間を置いた後、ゆっくりとキャンパス前で浮かしていた手を下ろし、静かに立ち上がった。
そして、静かに振り返る。
笑うでもなく、怒ったふうでもなく、ただ静かに安積を見下ろす。
生徒達も初めて見るその顔を、食い入るように見つめた。
噂通り、色白で綺麗な黒髪に、青い目をしている。
その人物としっかり視線を合わせたまま、安積はもう1歩歩みを進めた。
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