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彼女の言葉が耳から耳へ抜け、空へ舞い飛んで消えていく。虫の知らせか。風の便りか。一抹の不安が俺の身体を駆け、俺はどうしても卒業式に出る気はなかった。ただ……。
長谷川は実家を離れ、賃貸マンションで一人暮らしである。親の干渉がない。これほど怖いものがあるのか。
一度だけ訪れた。都会的なつくり、無機質で、悪く言えば生活感のない――
やっぱり鍵はかけなかった。ノブをひねると最先に鼻を刺激したのは玉葱。玉葱のような刺激臭だ。これは、ガス漏れの臭いだ。廊下を入りすぐ。そうだここに台所が。ガス栓は開いたまま、ホースの口がこちらを睨んでいた。
予想していたのかもしれない。可能性を信じていたのかもしれない。嘘が真を語り、真実が虚実を吐いたころ。リビングにぽつんと咲いた一輪の花。まるで時間が止まったように、枯れることを忘れたように、眠るように天を仰ぎ、その閉じた瞳の先には何が写っているのだろう。腕の中には、俺の宛名を書いた便箋がそえられている。
俺は教師を退職した。
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