フランシス・アントワーヌ

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私が生まれたのは、アルザス・ロレーヌ地方にほど近い、ドイツの辺境だった。 自然だけは豊かだったので、姓は<黄金>を意味するグルデンーそして、名はフランツ・アントニウスという。 母親は田舎では領主くらいしか興味をもたない、クラヴサンの弾き手だった。 父親は、仕立て屋だった。 私の出生は、いくら田舎とはいえども、家は城壁の内側、中央部にあり、そこそこに繁盛していたため、不幸なものではなかったと言える。 家庭教師もいた。 私は国境付近に住んでいたこともあり、フランス語とドイツ語を話し、書くことができた。ああ、あと余分に、アルザス語もね。 当時はオーストリアがフランスとの同盟を確固たるものにしようと躍起になっていて、国境付近の土地はいつどの国の領土にされるかという不安の時代であった。フランス、オーストリア、ロシアとでドイツを包囲しようという、なんともえげつない作戦もあった。 プロシャのフリードリヒ大王はこれを「三枚のペチコート」などと揶揄していたが、そんなジョークが笑える状態でなかったのも確かだった。 ヨーロッパは領土と領土と領土のことで頭が冷え切っていたのだ。 そういう状況に、私は生まれたのである。 では、これから、楽しく昔話を語らせていただこう。
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