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「申し訳ないけど、今月いっぱいで契約継続を破棄ということで、、、」 支配人に呼ばれてそう告げられてもそれほど驚いてはいなかった。 「はい、わかりました。お世話になりました」 そう返事をすると支配人室を後にした。 ずいぶん前から後任のピアニストについて噂されていたし、音大卒のお嬢様でここの社長の知り合いだということも囁かれていた。彼女はラウンジのピアノから、結婚式場のピアノも担当するらしい。 ピアノを習ったこともない独学の俺がここに採用されたことも異例のことだったし最初からつなぎのつもりだったのだろう、それが3年務めることができたことに感謝しなくてはならないぐらいだ。 丁度いい潮時だ、ここの居心地が良すぎた。俺自身最初の目標を見失ってホテルのクラブのピアノマンでもいいかと思い初めていたのだから、、、 通用口から外に出ると雨が降っていた。 ユチョンはコートを頭から被ると地下鉄の入り口へと走る。春だというのに冷たい霧雨が正面から降り注ぎ、目を細めて道行く人を避ける。 次の仕事を探さないと、、、 地下鉄は終電が近いせいなのか混んでいた。隣で酔っぱらいがつり革につかまり列車が揺れるたびにもたれかかってくる。周りの乗客も迷惑そうに遠巻きに見ているが、誰一人として文句を言う事はない。見慣れた光景なのだ。 ユチョンは次の駅で空いた席に酔っぱらいを座らせると、手すりにもたれさせてその前に立つ。まだそんなに歳というわけでもない。少しよれよれではあるがスーツを着たサラリーマンだ。左手の薬指に指輪をしているところを見ると、家で奥さんが待っているのだろう。
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