一章

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 一九九八年、まだ続く暑さを振りまく九月のまさに今日、僕は三十五歳であった。  決められた目的地を目指し宙に浮かぶ飛行機。その巨大な鉄の塊の中で、僕はアイマスクを目にかけ、ヘッドホンを頭に装着し、お気に入りの洋楽を慣れた手付きでかけ始めた。外界との関係を完全に絶っている、これが僕の安らげる空間なのだ。    *  僕はかなりの時間をひとり暗闇の中で過ごした。世の中のしがらみや煩悩から一時的に疑似解放されたのはかなりリラックスできたと思う。だが、だからといって、僕の悩みが解決される事は無かった。また、暗闇というものは基本的に恐れるべきものであり、ということは僕も同様にそれを恐れたことは至極当然の事である。現に、今僕はアイマスクもヘッドホンもこの体に身につけてはいなかった。寝ている間中音楽をかけ続けていたせいか、少し耳鳴りがする。まあ、音量は低めにしていたから大丈夫だろうと僕は高をくくり、さして気にはしなかった。  静か。静寂。どうやら今は飛行機時間で夜のようだ。みな寝静まっていて、その寝息が絶えることなく響いている。僕は大きく体を伸ばした。できるだけ大きく。意図せずとも「うーん」と声まで出していた。 「うるさいな。わたしはもう眠いんだ。静かにしてくれないか」  どうやら他の乗客に迷惑がかかってしまったようだ。すみませんと小声で謝る。文句を言った乗客は納得したようにもう一度目を閉じた。ふと周りを見渡すと不機嫌そうにこちらを見ている乗客が他にも何人かいた。それぞれに軽く礼をして、僕はふたたび眠りにつくことにした。今回はアイマスクも無しだ。暗闇はもう充分すぎるほどに体感したからである。  僕は思い出していた。というより、考えていたというほうがあるいは正しいのかもしれない。どちらにせよ、僕の頭の中に響いていたのは暖かい空気と鳥のさえずり、そして木々の間にみえる光だった。今でも色あせない、むしろあの時よりも克明なその記憶に、僕はいいようのない悲しみを感じていた。なぜそのような感情を抱いてしまうのか、僕は一瞬だけ思案を巡らせた。それは一瞬だけで十分に理解できた。簡単なことだ。その時そこに僕はいて、そしてそこに君はいなかったからだった。
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