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静寂に包まれた農村が、鮮やかな黄昏に染まっていた。
寝苦しい季節が過ぎ、黄金色の麦が涼風に遊ばれる風景は斜陽の茜に塗り潰されて、誰もが言葉を失うほどに美しい。
ところが、その景色をぼんやりと傍観しながらも、男は鬱々としたため息をついた。
名をハンスといい、170センチ程の身長にこけた頬、加えて無精髭を顎に蓄えている。彼の父親の跡を継ぎ、職業は小さな宿屋の主だ。
宿屋と言っても村は小さく、旅人か行商人が稀に来るくらいの立地であるからして、部屋数もわずかに二つばかりしかない。
そして、その二つもまるで人気が感じられない。
当然である。誰もいないのに気配があるはずがない。
「また、客なしか。干上がっちまいそうだな」
ハンスは小さくぼやく。けれど、実際には大して問題無いだろう。というのは、彼の仕事が宿の営みだけではないからである。
畑を耕して収入を得ているので、飢饉でもない限り飢えに苦しむこともない。
だから客が居ないことなど、日常の一部でしかない。
言葉とは裏腹に彼は別のことを考え、そのせいで完全に上の空だった。結果、体裁の上では待望であるはずの客がいることにさえ気付けなかった。
「すみません、宿を借りたいのですが」
黒い髪の青年だった。目元は前髪で隠れていて見えないものの、中性的な顔立ちと並の男よりもやや細い程度の躯体は歳を神秘のベールへと包み込んでいた。少年と言っても、男と言っても語弊はない。
格好は質の良さそうな旅服の上から、皮の黒いコートを羽織っていた。
「はぁ、客こねぇなぁ……」
凜としていてよく通る青年の声もハンスの耳には届いていないらしい。
さて、どうしたものかと青年が悩んでいると――
「客ならあんた目の前だよっ!」
30後半ほどの体付きのよい女性の熊のような拳が振り下ろされた。
「ぐおっ!? おまえ、何しやがるっ!!」
頭蓋骨を粉砕しかねない衝撃音と同時に、聞いて人間まで苦痛を伴いそうな悲鳴をあげた宿屋の主。あれは相当痛いだろうなと青年は自分の頭を右手で軽く押さえた。
涙目を浮かべたハンスの抗議を歯牙にかけた様子も無く、彼の女房は青年に声をかける。
「しっかし、ずいぶんと二枚目の客だね。お客さん何泊だい?」
別に茶々を入れている訳ではない。比喩無しに、貴族でもここまで容姿の優れた人間はそうそうお目にかかれまい。
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