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【温度】
余りにも一瞬の出来事に男の思考は止まった。
目の前でいつものように眠る愛しき女の体が二、三大きく痙攣し、そのままぐったりとベッドに沈んだのだ。救急車すら呼べず立ち尽くしてしまっていた敬介は、シーツの中に納められていた心臓に手を添えた。
『…静かだ』
ソレは何も奏でていなかった。
枝の様に細い彼女の手を取り出し、手の甲に男の渇いた唇を押さえ付ける。まだ柔らかい彼女の手は青白く、病によって刻まれた皺は、死を受け入れ、更に窪んでいた。
そんな彼女を見つめ、『今は…苦しくないのかい?』と問い掛ける。
『ええ、不思議と苦しくないの』
帰ってくるはずの無い聲が反響する。
敬介は口付けをしていた手を自分の首へと巻き付け、ゆっくりと抱え込んだ。
ずっしりとした重みには安心感と同時に、違和感を感じる…。
彼女は長身の割に38㌔しかなく、生前は妖精のように軽やかだったのだ。
だが、全身で寄り掛かる彼女の重みときたら、土に帰るが為、重力に身を任せた肉塊であった。
重く、だらりと男の首に手を回す。
敬介の眼から涙が溢れた。
涙は静かに頬を伝い、彼女の瞼に堕ちた。
少しだけ、待ってて下さい。
少し?
少しだけ。
待つの?
少しだけ。
待たないわ。
待たない。
春の陽射しは
彼女が目を醒ますかもしれない錯覚を感じさせる。
ただ、二人を暖かく照らしていた。
―了―
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