薫る時

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不思議と、気配がした。 それはふとした感じだったが、私は目覚め、彼を見た。 ジッと見つめた。 ああ、ご主人様が逝ったのだ、と私は理解した。 彼の死に顔は安らかで、まるで寝ているようにも見えたが、そうではないのだ。 涙は出なかった。 悲しかったが、私は泣かなかった。 何故かと聞かれれば、犬は泣かないものだからと答えよう。 とにかく私は泣かなかった。 代わりに庭に出て、沈丁花を嗅いだ。 ご主人様が好きだった。 彼ほど優しく穏やかな人間には会ったことがなかった。 彼の美しい眼(まなこ)が私を見ることは、もう永遠にないのだ。 美味しい餌を与えてくれる美しい手も、もう動かない。 私を撫でてもくれず、呼んでくれる事もない。 ご主人様が死んだ。 それは私にとってひどく悲しい事だった。 私は慈雨。 彼の犬であった。
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