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――あれは、もう一月も前の話になる。
「みぃつけた」
広大な芝生へ無防備に寝転ぶ姫を見つけた声は、やけに嬉しそうだ。
ふわり、と鼻をくすぐる香は桜だろうか。淡く今にも消え入りそうなくせして、妙に心に残る香り。
「フィオ」
黒髪の少女はくすくす笑いながら、寝たままフィオの方に両手を伸ばす。フィオはなされるがまま、さらりと髪に触れる少女の指先を感じていた。
フィオの、絹糸のような髪は豪奢に芝生まで伸び、光を浴びて燃えるように紅く煌めいていた。この世界の中でも非常に稀有なる髪色は、彼女が特殊な一族の出であることを示していた。
髪も瞳も、こんなに眩しいほど紅いのに、その眼差しも仕草も、何もかもが優しさに満ちていた。「大陸の太陽女神」と讃えられるほどの美貌の持ち主なのに、それを鼻にかけることは一切ない。
「姫様はすぐに迎合を抜け出すと、宰相が嘆いていたわ」
フィオは特に咎める風もなく、少女を膝に乗せたままそっと囁いた。
長同士の語り合いの場である迎合は大切な政治の場であり、国の意志決定機関である。
その重要性を分からない少女ではなかったが、どうしても今の迎合の方向性が気に食わず、諸官と揉め、飛び出してきてしまったのだ。
「ボクのことは名前で呼べって、言っただろ?」
赤髪を指先でいじりながら、少女はふて腐れたようにむくれる。彼女の地位と正体を知り、尚且つ敬語を使わなくても良い人間は、この宮殿で知りうる限りフィオただ一人だった。
「アスタロス=グランジュ=ノワール? それとも“此の世の君”?」
「フィオ……」
「冗談よ、アーシェ。怒った顔も可愛い」
きゃ、と喜びながら、つんつんとアーシェのほっぺをつっつくフィオ。
「……やっぱり、納得いかないの?」
フィオの、寂しそうな問いに。堪えていたアーシェの怒りが、一気に爆発した。
「――ッ当たり前だ!」
がばっ! と跳ね起きると、髪や服についた花がふわりと舞う。
「大体長達もなんだ、普段はボクのこと神だとか讃えるくせに、国益が絡むと一切耳を貸さない!」
「あなたは神そのものだわ。何年も前からこの国に在る」
「そういうことを言いたいんじゃないフィオ、話を逸らすな。……何故お前が、戦を回避する為の犠牲にならなければならん!?」
フィオは、しかしその叫びにも微笑みを返すだけだった。
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