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「そう。それじゃ大丈夫なんだね!」
嬉しそうな声が、受話器から漏れた。
その声を聞いて私も嬉しくなる。
「うん、やっとゆっくり過ごせるね。嬉しい」
「僕も」
心の底を震わせるような、色気のある低い声。
奏太にはない男らしさが、電話越しのくせに私を惑わせる。
祥子と会うと予定なんて無い。外泊は、彼とゆっくり過ごす為の嘘だ。
「佳乃さん」
私の名を丁寧に呼ぶ声も、
「声を聞いたら、会いたくなった…」
歯の浮くような甘いセリフも、
「駄目、来週まで我慢して…。辛いのは私も一緒よ」
「…分かってる。今、旦那さんは?」
剥き出しの嫉妬心も、
「お風呂入ってる。でも、そろそろ切らなきゃ…」
「今夜は僕を想って眠って。旦那になんか触れさせないで…」
子供っぽい独占欲も、私を縛る愛の一つ一つが愛おしくなる。
「おやすみ、ケイ。私の夢を見て…」
通話が途切れ、谷倉 景の名前と携帯番号が表示された画面を、私は名残惜しさから見つめた。
ケイと不倫関係に陥って、もう半年が経とうとしていた。
まだ若い、五歳も年下の男。そんな彼に私は、禁断の味を教えてしまった。
口から垂れる果汁は彼を汚し、甘い匂いを染み付かせる。
引き返そうと思ったところで、もう遅い。知ってしまった後では、何もかもが手遅れだ。
ふと、寝室の向こうに人の気配を感じた。奏太がお風呂から上がったのだろう。私は携帯電話をしまい、部屋の電気を消して広いダブルベッドの端に体を横たえた。
目を閉じて間もなく、扉が開く音と隙間から光が差し込むのを感じた。
今の明かりが消え、ベッド脇のランプが灯り、キシリとスプリングが鳴いた。
「佳乃……」
囁く声と、髪に触れる指。
「もう寝ちゃった…?」
肩を撫でる奏太の暖かい手がそっと離れ、小さなため息が聞こえた。
そしてランプも消され、部屋が闇に包まれる。
知らぬ内に力の入っていた拳を弛め、ほっと息を吐いた。
ケイと関係を持ってから、奏太には抱かれていない。残っているはずの無いケイの痕跡を、見抜かれてしまいそうで怖いから。
私はまだ、自分は綺麗だと夫に思われたいのだ。
夫だけを愛する、純白な妻だと思いたいのだ。
こんな女なのに、奏太に愛されていたいのだ。
彼の安らかな寝息を聞きながら、私は眠りに就いた。
酷く自分勝手で、都合の良い夢を見た。
幸せそうに笑う自分に吐き気を覚えるような、幸せな夢だった。
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