林檎の見る夢(前編)

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「そう。それじゃ大丈夫なんだね!」 嬉しそうな声が、受話器から漏れた。 その声を聞いて私も嬉しくなる。 「うん、やっとゆっくり過ごせるね。嬉しい」 「僕も」 心の底を震わせるような、色気のある低い声。 奏太にはない男らしさが、電話越しのくせに私を惑わせる。 祥子と会うと予定なんて無い。外泊は、彼とゆっくり過ごす為の嘘だ。 「佳乃さん」 私の名を丁寧に呼ぶ声も、 「声を聞いたら、会いたくなった…」 歯の浮くような甘いセリフも、 「駄目、来週まで我慢して…。辛いのは私も一緒よ」 「…分かってる。今、旦那さんは?」 剥き出しの嫉妬心も、 「お風呂入ってる。でも、そろそろ切らなきゃ…」 「今夜は僕を想って眠って。旦那になんか触れさせないで…」 子供っぽい独占欲も、私を縛る愛の一つ一つが愛おしくなる。 「おやすみ、ケイ。私の夢を見て…」 通話が途切れ、谷倉 景の名前と携帯番号が表示された画面を、私は名残惜しさから見つめた。 ケイと不倫関係に陥って、もう半年が経とうとしていた。 まだ若い、五歳も年下の男。そんな彼に私は、禁断の味を教えてしまった。 口から垂れる果汁は彼を汚し、甘い匂いを染み付かせる。 引き返そうと思ったところで、もう遅い。知ってしまった後では、何もかもが手遅れだ。 ふと、寝室の向こうに人の気配を感じた。奏太がお風呂から上がったのだろう。私は携帯電話をしまい、部屋の電気を消して広いダブルベッドの端に体を横たえた。 目を閉じて間もなく、扉が開く音と隙間から光が差し込むのを感じた。 今の明かりが消え、ベッド脇のランプが灯り、キシリとスプリングが鳴いた。 「佳乃……」 囁く声と、髪に触れる指。 「もう寝ちゃった…?」 肩を撫でる奏太の暖かい手がそっと離れ、小さなため息が聞こえた。 そしてランプも消され、部屋が闇に包まれる。 知らぬ内に力の入っていた拳を弛め、ほっと息を吐いた。 ケイと関係を持ってから、奏太には抱かれていない。残っているはずの無いケイの痕跡を、見抜かれてしまいそうで怖いから。 私はまだ、自分は綺麗だと夫に思われたいのだ。 夫だけを愛する、純白な妻だと思いたいのだ。 こんな女なのに、奏太に愛されていたいのだ。 彼の安らかな寝息を聞きながら、私は眠りに就いた。 酷く自分勝手で、都合の良い夢を見た。 幸せそうに笑う自分に吐き気を覚えるような、幸せな夢だった。
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