8人が本棚に入れています
本棚に追加
「大丈夫ですか?」
「え?」
「……少し顔色が悪いようですが」
いけない。
仕事中なのに。
マキナは軽く首を左右して見せた。
「何でもないんです。続けて下さい」
思考をジャックしていたのは、明け方に見た夢の残像。
8年も前のことを、どうして今更夢になんて見てしまったのか。
たかが夢で、いまだにこんなにも動揺してしまう自分はなんなのか。
まったくもって腹立たしいことばかりだった。
「いいえ、少し休憩にしましょう。お茶を淹れましょうね」
「あ、私がやります」
慌てて立ち上がろうとしたマキナを、軽い手の動きで制し、マキナの「新しい上司」は応接室を出て行ってしまった。
「……はあ」
マキナは革張りの椅子に深く腰掛け直し、盛大に溜め息をついた。
新しい職場で本格的に仕事を始める初日だというのに、こんな調子でいいわけがない。
仕事の話をしてる最中に上の空になったり、いきなり上司に気をつかわせるなんてもっての他だ。
「……もっとちゃんとしなくちゃ……」
一週間。
たった一週間だったが、完全に仕事から離れた空白の時間を過ごしたことが、歯車をひとつ、狂わせてしまったのかもしれない……マキナはそう考えていた。
短大を卒業して、この業界に入ってから5年。
思えばガムシャラに突っ走って来た。
芸能界、音楽業界といえば華やかな響きだが、華やかな世界のけして華やかではない裏側で奮闘する、アーティストマネージャーという仕事こそがマキナの選んだ職業だった。
それでも、大手というほどではないが、名の通った音楽事務所に就職して、順風満帆というほどではないが、それなりに自信の持てる仕事を幾つかして来た。
ところがその事務所がこの春、経営者の大変個人的な事情で事実上消滅した。
「個人的な事情」とは一体なんなのか十分に説明されることなく、所属アーティストもスタッフも、事務所の持つ色々な権利もバラバラに切り売りされて、散らばってしまった。
法に訴えたら勝てそうな状況だが、スタッフが誰も訴えなかったのは、各々に破格の退職金と、再就職先の厚遇があったからだった。
マキナもまた、未だかつて見たことのない数列を刻まれた預金通帳に驚嘆しつつ、紹介されたこの新しいオフィスで再出発することになった。
最初のコメントを投稿しよう!