《序章 いつかその目に映る虹―Sternebogen―【1】》

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「大丈夫ですか?」 「え?」 「……少し顔色が悪いようですが」  いけない。  仕事中なのに。  マキナは軽く首を左右して見せた。 「何でもないんです。続けて下さい」  思考をジャックしていたのは、明け方に見た夢の残像。  8年も前のことを、どうして今更夢になんて見てしまったのか。  たかが夢で、いまだにこんなにも動揺してしまう自分はなんなのか。  まったくもって腹立たしいことばかりだった。 「いいえ、少し休憩にしましょう。お茶を淹れましょうね」 「あ、私がやります」  慌てて立ち上がろうとしたマキナを、軽い手の動きで制し、マキナの「新しい上司」は応接室を出て行ってしまった。 「……はあ」  マキナは革張りの椅子に深く腰掛け直し、盛大に溜め息をついた。  新しい職場で本格的に仕事を始める初日だというのに、こんな調子でいいわけがない。  仕事の話をしてる最中に上の空になったり、いきなり上司に気をつかわせるなんてもっての他だ。 「……もっとちゃんとしなくちゃ……」  一週間。  たった一週間だったが、完全に仕事から離れた空白の時間を過ごしたことが、歯車をひとつ、狂わせてしまったのかもしれない……マキナはそう考えていた。  短大を卒業して、この業界に入ってから5年。  思えばガムシャラに突っ走って来た。  芸能界、音楽業界といえば華やかな響きだが、華やかな世界のけして華やかではない裏側で奮闘する、アーティストマネージャーという仕事こそがマキナの選んだ職業だった。  それでも、大手というほどではないが、名の通った音楽事務所に就職して、順風満帆というほどではないが、それなりに自信の持てる仕事を幾つかして来た。  ところがその事務所がこの春、経営者の大変個人的な事情で事実上消滅した。  「個人的な事情」とは一体なんなのか十分に説明されることなく、所属アーティストもスタッフも、事務所の持つ色々な権利もバラバラに切り売りされて、散らばってしまった。  法に訴えたら勝てそうな状況だが、スタッフが誰も訴えなかったのは、各々に破格の退職金と、再就職先の厚遇があったからだった。  マキナもまた、未だかつて見たことのない数列を刻まれた預金通帳に驚嘆しつつ、紹介されたこの新しいオフィスで再出発することになった。
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