《序章 いつかその目に映る虹―Sternebogen―【1】》

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「お待たせしました。コーヒーでよかったですかね?」 「あ、はい。ありがとうございます。頂きます」  テーブルにコーヒーカップと焼き菓子の載った皿とを並べる仕草が、まるで漫画に出て来る執事のように様になっている、この眼鏡をかけた男性。  彼がここ「フジムラ・エージェンシー」の社長であり、著名な音楽プロデューサーでもある藤群高麗(フジムラ・タカヨシ)だ。  年の頃は恐らく30代後半くらいの筈なのだが、外見はまったくもって年齢不詳。  派手ではないが、品の良い仕立てのグレーのスーツ(高級ブランドのものだろう)に身を包み、背中にかかる長さで緩いウェーブのかかったマロンブラウンの髪を左の肩口で結わえている。  かけている眼鏡のフレームは黒かと思っていたが、角度が変わると光の反射で、深い紫に見えた。  前の事務所の社長もたいがい若く見えたものだが、この人ほどではなかったかもしれない。  加えてこの柔らかい物腰に、優しげな微笑……どこまでも少女漫画的だった。  さぞかし女性に人気があるのだろうと思うが、未だに独身で通しているようだ。  マキナは目の前の人物をつぶさに観察しながら、コーヒーを口に運んだ。  ほろ苦い香りが広がる。 「マキナさんはブラック、なんですね」  スティックシュガーの先端を破りながら、藤群が口を開いた。  マキナは、いきなり「マキナさん」とファーストネームで呼ばれたことに一瞬驚きながらも、 「はい……コーヒーはブラックじゃないと飲めないもので」  と、答えた。藤群は更に重ねて問う。 「では紅茶も、ストレートがお好きなんですか?」 「!」  カップを握る手がほんのわずかに揺れて、琥珀色の水面が波打つ。  記憶の扉のひとつが、微かに動き、隙間が生まれる。 ――紅茶はストレートで飲む以外ありえないね。……ミルクやフレーバーを加えるなんて、紅茶に対して失礼じゃないか。  夏の日差しの下。  他愛もない会話。  ああ、だから。  思い出してどうする。  くだらない男のことなんて……。
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