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「・・・ん」
游梨は冷たい風を熱を持つ顔に感じ、重い瞼を上げた。
霞んではいるが、見慣れた通りが右目の視界の隅に映る。
昼間でも人通りの少ない、ビルの間の狭い路地に游梨はいた。
髪は絡まり、風に長時間晒されたよう。
全身が酷く痛み、舌で口内を舐めると血の味がした。
頬が両方とも腫れているのが分かる。
手も足も胸も腹も、どこもかしこも殴打の熱が脈打ち、生きているのが奇跡に近い。
『生きている』
ぼんやりした游梨の頭に、その一言は正気を失わせるのに充分だった。
(彼は私が死んだと思ったから、ここに捨てたのだろう。まだ私が生きているなんて知れたら・・・)
ぞっと鳥肌が立ち、その先は怖くて表せなかった。
薄く開かれた目尻から、涙が零れ落ちた。
涙は後から後から溢れ、視界は曇り、頬から顎に達すると所々血が滲むシャツに、新たな模様を作っていく。
嗚咽に震える胸が、痛くて、苦しい。
自分に対する不甲斐なさからか。
彼に対する恐怖からか。
殴られた痛みからか。
全部引っくるめての涙に違いない。
游梨は力を振り絞り、近くに転がるビンの破片を掴んだ。
(初めからこうすれば良かった。悲しんでくれる人なんて、いないんだから・・・)
游梨は震える腕を持ち上げ、破片を手首に当てた。
その時、何も無かった筈の游梨の眼前に、灯りの少ない闇夜でもはっきり分かる、濃い黒い影が飛び込んできた。
游梨は反射的にそのまま動きを止めた。
小柄だが、体格から男だと分かる。
同時に光を放つ赤い瞳から、人間ではないという事も。
自分を見下ろす妖艶な雰囲気を醸し出す男に、游梨は一言だけ言葉を発した。
「・・・私を殺して・・・」
破片が手から滑り落ち、カランと音が響いた。
瞼が閉じられてゆく。
意識を失う寸前、游梨は柑橘系の匂いが鼻孔を満たし、身体がふわりと浮くのを感じた・・・。
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