空中分離

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目の前で丁寧に折り目をつける伊勢谷千博くんをよそに、私はあることが気になって仕方なかった。 いまメモ帳のページをめくっていた時に一瞬見えた私の名前。 伊勢谷千博に書きなぐられた 小牧結和子。 「あの…」 ようやく折り目をつけ終わった紙に、今度は万年筆で窓と出入口を描き込んでいる。 「なんですか」 顔もあげずに応える伊勢谷千博くん。 「え、ええと… 伊勢谷くんはどこで私の名前を知ったんですか?」 訊ねると、手を止めてこちらを見てくれた。 「伊勢谷くんて」 「え?」 「名字で呼ぶのやめませんか?」 「あ、じゃあ…千博くん?」 それを聞くと、伊勢…もとい、千博くんは再び作業を再開した。 また質問を流されてしまった…と密かに憤慨していると 「調べました」 紙に視線を落としたままの彼が唐突に言った。 「何を?」 我ながら間抜けな聞き返しだ。 千博くんは少しだけ視線をあげて、上目遣いで答えてくれた。 「結和子さんを」 …調べた?私を? どこでどうやって? 「出来ました」 「あの…」 「これがこの部屋です 窓があって、廊下につながる出入口。」 万年筆で指し示しながら丁寧に教えてくれる…のは結構だけど、何か誤魔化された気がする。 そしてそれは気のせいではない。 「この部屋をこの真ん中の折り目で分けましょう」 あ、あれ? なんで私の部屋のことなのに千博くんが仕切ってるの? 「窓側と、出入口側 どちらがいいですか?」 なんだか大いに納得いかないけれど私に人を仕切る度量はないし大人しく従うことにする。 「…窓側がいいです」 「…でしょうね」 千博くんは顎に左手人差し指の第二関節をあてて何か考え込み出した。 「…たぶん僕はほとんど外出することはないと思うんです」 「え? でも学校とか… 向こうで通っていた高校があるでしょう?」 「高校は辞めました 仕事があるので」 仕事…? 「ちょっと待ってください 仕事ってなんですか?」 「物書きです」 私はぐらりと宇宙を見た。 「物書きって…小説家?」 「そうともいいますね まあ小説だけでなく 色々文章を書き散らしてますけど」 呼吸が難しくなってゆく 18歳の小説家 妄想でしかなかった私の夢を体現した人間が目の前にいる。
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