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僕は。
肝心の僕は――状況も忘れてその少女に魅入ってしまっていた。
それはもしかしたら現実逃避かもしれないし、その少女がとても美しかったからかもしれない。けれどそのどれよりも、何故か懐かしい感じがした。
望郷のような心地。僕が今までいた場所はどうしようもなく偽物で嘘っぱちでまやかしで紛い物で贋作で、今目の前に広がる場所こそがどうする気にもならないくらい問答無用で本来いるべき場所――“本物”を前にしたような感慨。
途端、血の匂いが、血の光景がとてもクリアに感じられた。血は鮮やかに。匂いは華やかに。
冷静に見渡す余裕が出てくる。大きな桜。血を吸って咲き誇るかのように満開で、電灯に彩られた花びらが宙を舞う。夜桜。幻想的な血と桜の共演。もちろん有無を言わさず主役は少女だった。圧倒的なまでの神秘さをたたえて、絶対的に絶大な存在感を身にまといたたずむ。
息を呑む。そんな時、何かが視界に入った。
少女の足元に赤黒い塊が横たわっていた。
人間だ。かろうじて、そう認識できる。それは距離が遠いからではなく、僕が知っている人間の形とは掛け離れていたから。まるで墓標のように、全身に突き立てられたナイフ。深々と。これでもかと。身体からナイフが生えているかのような錯覚と共に、人間とナイフ、どちらが無機物なのか忘れそうになってしまう。
そして、その人間には首から上がなかった。これ以上ないくらい分かりやすい死。骨と肉。肉と骨。生々しい断面が見える。不自然とそこには血が無かった。
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