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ほんの。
ほんの一瞬の出来事だった。
ぼんやり眺めていた彼の両肩が、
『微かに上下した』
様に見えた。
見間違いだろうかと、早智子は目を擦り、再度彼の背中に焦点を戻す。
──いや、やはり見間違いだった様だ。
彼の沈黙は、何ら変化を見せない。
「…………くさん」
全身の、毛穴が開く。
──何? 今、何か、喋った?
背筋に、凍り付く様な悪寒が疾る。
──いや、早智子。しっかりしろ。
何故、『怯える』必要がある?
『非定型神経障害』を患った患者が、父の声を聞いて、奇跡の覚醒を果たした──。
奇跡の覚醒が事実かどうかはともかく、喜ばしい事ではないか。それなのに。
それなのに、何故。
早智子は、自分の左腕に拡がる、無数の突起を眺めながら、思った。
羽根を毟られた鶏が、この私。
白い、看護師の制服。
そこから生えた私の二の腕は。
『鶏肉』──。
私が鶏肉ならば。
それを捕食するのは──?
ハッと我に返り、早智子は自らの眼前に意識を戻す。
だが。
彼女はまたその瞬間、愕然とする。
『いない』。
いないのだ。
白い入院着に包まれ、生まれたての赤ん坊の様に何も出来ずにただ立ち尽くしていたあの患者の姿が、消えていた。
「あ……浅倉さん?」
彼女の呼び掛けは、宙に消える。
電話は……彼が先程まで握り締めていた筈の受話器は、本体にきちんと戻されていた。
「……何処、見てるのさ」
早智子の喉が、ひゅうっ、という風を洩らす。
『風』は、声に成り得なかった、彼女の悲鳴である事が理解出来た。
背後の声は、何の脈絡も無く彼女の右耳のすぐ側で発せられ、それと同時に、熱い吐息を早智子に感じさせた。
身体が、動かない。
いつしか、彼女の両肩は、力強い男の力で、押さえ付けられていた。
彼女のうなじ辺りで、男の呼吸音が激しく舞う。
──匂いを、嗅いでいる?
そう、早智子が感じた瞬間、彼女のうなじを熱い蛞蝓(なめくじ)が這い上がった。
「旨そうだな、あんた」
高岡早智子の記憶が記録したのは、その言葉が最後だった。
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