Another Prologue

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高岡早智子は、彼の左手に受話器を持たせて、深い溜め息をついた。 伸びた不精髭。 力無き足取り。 焦点の合わぬ双眸……。 白く、簡素なデザインの入院着に身を包んだ彼は、ただ私にされるがままに、受話器を握っているだけに過ぎない。 会話など、出来る訳が無かろう。 『非定型神経障害』という診断を受けた彼がここに入院して、既に一ヵ月以上が経過している。 病状に、変化は無い。 彼の担当医師である北方藤兵衛も、『入院は長引きそうだ』と言っていた。 そんな彼に、電話が架かってきたのだ。 『訳あって、離れて暮らしている父親です』 電話の相手は、名乗りの後に、自らの素性を簡略に説明した。 早智子は、 「お呼び出しするのは構いませんが、会話が出来る状態では無いと思いますよ」 と応えた。 しかしその父親は、 『それでもいいんです。本当はそちらに伺いたい所なんですが、私は今、仕事で東京を離れられない状況にあるんです。とにかく、息子の声を聞かせて下さい』 と、沈痛な声音でさらに懇願する。 早智子は困った。 いつもなら北方に判断を仰ぐ所なのだが、今日は生憎、彼は学会に招聘されていて不在だった。 しかも、先方はテレホンカードの度数が残り少ないとも付け加えた。 ……あの患者が入院したばかりの頃、物々しい対応に終始していた事を思い出す。 しかし、あらゆる手段を講じても尚、彼の病状は回復しなかった。 特に厳命されているという程でも無かったが、通常の入院患者よりも特別な監視が必要、とだけは、早智子も早い段階から聞いている。 ──どうしたものか。 そう思いつつも、早智子は足を止めず、院内のリノリウムを早足で移動していた。 早智子が勤めるこの施設は、いわゆる一般の医療施設という訳ではない。 精神的な悩みを持つ外来患者が訪れ、それに対するカウンセリングを執り行なうというのが、主だった診療の内容である。 ──施錠を外し、ベッドに横たわる彼の身を起こす。 そもそも、この診療センター自体の規模も、決して大きな物ではなかった。 そして現在の入院患者も、彼一人を数えるだけだったのだ。 であるが故に、常勤する看護師の数は、極めて少ない。 ……今夜も、ここにいるのは当直の早智子だけである。 ──そして結局、彼女は独断で、彼を電話機の前まで連れて来てしまったのだ。
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