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「いやお客さん、少し様子を見た方がいいって。もしなんか事件とかだったら、中にいた方が安全だよ」
運転手の言葉には耳を傾けず、佳緒莉は携帯電話を取り出し、何処かへとコールを開始していた。
「ねえ、お客さん。悪い事は言わないから──」
「開けて下さい!」
自分でも驚く程の口調で、佳緒莉は運転手の言葉を遮った。
面食らった様に、彼は慌てて後部座席のドアを開ける。
佳緒莉は、携帯を右肩で挟んだまま、両手で荷物を抱え、車から身体を滑り出した。
「あ、お客さん、花束!」
背後から、運転手の声が追い掛けてくる。
同僚達から贈られた餞別の品ではあったが、佳緒莉はそれを無言で諦めた。
発信した相手のコール音は、応答される事無く、留守番電話のメッセージへと切り替わる。
一旦携帯を閉じ、足早に人垣へと向かう佳緒莉。
そして、彼女がその場所まであと数メートルという所まで近付いたその時、群衆がぐらりと揺らいだ。
と同時に、ぱんっ、という渇いた音が、空気を切り裂く。
続け様に、複数の悲鳴と、どよめきが湧き上がる。
驚き、その場に硬直した佳緒莉の眼前で、人垣が真っ二つに割れた。
──昔見た、古い映画のワンシーンの様に。
大海原を二つに割った、あの賢者の様に。
人垣は崩れ、立ち尽くす佳緒莉の左右を、彼等はうねる波の如く流れた。
絶え間無く耳を刺す、人々の怒号、叫喚。
確かに耳で聞こえている筈の、その雑多などよめきが、佳緒莉には何故か、酷く遠く聞こえた。
意識が、霧がかった様に、脆弱な物へと変化する。
……やがて。
やがて、彼女の意識は、じわりと蘇る。
意識が混濁していたのは、ほんの数秒の事だったのかも知れない。
しかし、その僅か数秒で、彼女が認識する世界は、その姿を変えていた。
……鮮血で、真っ赤に染まったワイシャツの男。
佳緒莉の意識が明確になった時、彼女の眼前には、その姿だけが、のっそりと立っていた。
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