プロローグ

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 死を目前にすると、決まって考えてしまう事柄がある。  神様が皆に平等に与えた三つのモノの事だ。  一つは生。二つ目は過程だ。  生とは神様が与えてくれた万物のモノ。それは与えられたと同時に等価であり、生きていく過程で不等なモノへと変わる。  三つ目は死。死は神様が与えてくれた最大の贈り物。これは変わらず平等で、完全なモノ。そして、一生他人の中に残る残留思念となる。  死した生物は輪廻転生し、束の間の休息を後に、また万物のモノとして生まれ変わる。  だから、死ぬ事はもっとも自然な理であり、神様が創った摂理だ。 死は摂理に則っり、万物の死は等価なのだから死に方なんて問題じゃない。  つまり、人殺しや共食いなんて言うモノは罪のカケラに当て嵌まらない。    なら、何が罪なのか。何をすれば神様が怒るのか。何をすれば地獄に堕ちるのか。  そんなことは愚問だ。答えは無い。  つまり、罪なんて言葉は摂理の中には無いのだ。  衝動と、一つの好奇心のカケラさえ有れば、常識の範疇にある罪の意識とやらは消え去る。罪には地盤が無いからだ。  故に一般的に殺人を犯す者は異常者でなく、むしろ摂理と意識に潜む獣の本能を正確に表した正常者と言える。    そう、正常。常識が異常なんだ。神様も、そう思っている筈だ。自分達で勝手に“ルール”という馬鹿なモノを作った人間達を嘲り笑っているだろう。  一般的に不良と呼ばれる存在もまた摂理に則らない“ルール”を無意識下で理解したからこそ、常識を逸脱した行動をしているのだ。  だが、不良と呼ばれる存在は弱さの象徴でもある。罪が罪でないと無意識の内に理解しながら、意識の中では否定し続けている。  理由は奥深くに根付く一般的常識があるからだ。罪が罪でないと意識する事を選べば、もっとも簡単な方法である殺人により“ルール”を抜け出し、摂理の中に生きる事が出来る。  しかし、それが出来ないという事は、非力で自らの殻を破ることの出来ない不良品として産まれた雛に等しい。
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