第零章 天国と地獄

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      1  暗い部屋。男と女が二人でベッドに横たわっていた。  午後十時半。  二人とも起きてはいるが、もうお互いに十分間ほど、表通りを走る車の音しか聞いてはいない。  「ねえ。死後の世界って在ると思う? 天国と地獄って在ると思う?」  女が突然男に訊ねた。瞬間、男の顔に翳りが見えた。  「お前はどう思ってるんだ?」  しかし男は、普段と変わらない口調で訊ね返す。  「絶対に在る。ううん。在って欲しい」  女は笑顔で応える。  「どうして?」  男はそんな女の笑顔を眩しく思いながらも、更に訊ねる。  「だって、死後の世界が無ければ死んだら終わりになっちゃうでしょ。そんなの寂しいじゃない。それに……」  「それに?」  「私は悪いことをしたことがないから、死後の世界が在ったら絶対に天国へ行けるもの」  女はそう言うと心から楽しそうに笑った。  普段の男であったならここで「お前は間違いなく地獄行きだよ」と言うところだが、今日の男はとてもそんなことを言う気分にはなれなかった。  「そうだね」  男は少し寂し気にそう応えた。悪いことをしたことがないか……。  また暫く沈黙が続く。  「ちょっと、私の質問に応えてよ」  今度も女の方が沈黙を破った。  「ん? ああ」  「死後の世界って在ると思う?」  もう一度、女は質問を繰り返す。  この時、男は女が余命幾許もないことを知っていた。  女は癌を患っていた。しかも病状は極めて悪く、手術をしても助かる見込みはなかった。結局、様々な紆余曲折があったものの、家族や本人の意志により病院側の反対を押し切って、入院するよりも残りの人生を楽しむという決断が下されていた。  そんな彼女が死後の世界は在るか? と訊く。天国は在るか? と訊く。しかも、男にとって最も大切な女性である彼女が……。  女の質問に対する男の回答は、NO。しかし、どうして本当のことが言えようか? 男は生まれて初めて嘘を吐いた。他人にではなく、自分に。  「俺もお前と同じ考えだ。死後の世界は在って欲しい。いや、必ず在る」  男は女の帰った後、激しく泣いた。  その次の日、女は天に召された。
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