花霞

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そのとき、強い風が吹いた。 いわゆる花嵐だ。 「あっ。」 声を上げてその人は顔を背けた。 「大丈夫?」 「目にゴミが入った。」 「こすっちゃダメだよ。上向いて目を開けて…。」 言われるまま素直に従う人。 僕は少し背の低いその人を見下ろし、下瞼を指で下げ、 「上を見るようにしてみて…。あった。取ってあげるからね。」 と言って、ポケットからハンカチを取り出し、そっとハンカチの先でゴミを取り除いた。 「取れたよ。大丈夫?痛くない?」 「…うん。大丈夫。…ありがとう。」 その人は僕を見上げ、僕は見下ろしたままの格好で目があった。 一瞬、時間が止まった。 僕を見上げる瞳がゆらゆらと揺れて、何か言いたげな眼差しだった。 見る見るうちに頬が桜色に染まり、男なのにとても色っぽいと感じた。 たぶん…もう少しそのままだったら、僕はキスしていたかもしれなかった。 でも、キスする前に、 「あの…ホ…ホントにありがとう。それじゃあ、また。」 と言って走り去ってしまった。 後ろを振り向かずに走り去る背中に向かって、 「あの!名前!せめて名前を教えてください!」 と叫んだが、それでも一度も振り向くことなく行ってしまった。 その人は花霞の中に消えていった。 僕は、走って追いかければいいものを、それを忘れてその場に立ち尽したままだった。 それから、葉桜になるまで暇さえあれば桜の小道に通い続けたけれど、会うことはなかった。 本当に天使だったのかも…。 そんなふうに思えてきた。 . .
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