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ここから海は、見えません。無用に眩しい午後の太陽光に炙(あぶ)られた、隣のマンションも階下のアスファルトも、まるで溶けかかった砂糖菓子やチョコのように揺れています。
私は生活する機能のみ整った盆地に住んでいます。買い物帰りの四辻の端に、茹った雀(すずめ)が落ちていました。ただすれ違うどの人もよそに目をやって視界に入れていないので、私も急いでその場を立ち去りました。ようやく日が沈んでいきます。私は私がいけないことをするほかなかった訳を知るために、電器を点ける間も惜しんで本を読み始めました。
ふと急に、名前を呼ばれた気がしました。
紙面から顔を上げると、逢魔が時を映した窓硝子(がらす)を背後に、誰かが立っています。胴体は太く盛り上がり、幅の広い肩から山を描いて乗っている頭部には、とがった角が生えているようです。青白く二つ光っているのは眼光に違いありません。とっさに私は得体の知れない影だと思いました。
サッシの鍵をかけず、カーテンごと開け放しておいたのは、ほかでもない私自身です。ただ網戸だけは閉めていました。息を呑んで身構えている私めがけて影が一歩、一歩、近付くたび、重い金属のぶつかる音がします。
「それ以上来ないで」
持っていた本を投げたもののた易く叩き落とされ、怖いと思った途端に腕をつかまれました。その手がはじめは熱い気がして、驚く間もなく押し倒された私は、せめてもの抵抗に歯を食いしばり、正面から影を睨(にら)みました。
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