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目の前には、巨大な月。
そのあまりに眩しすぎる光を、食らい去ろうとするかのような、鬱蒼とした森がさざめいている。
いつだったか耳にした、欧羅巴(よーろっぱ)の、月と太陽を食らう獣を彷彿とさせた。
それは、神だったか悪魔だったか。
今ではとうに分からない。
その話を聞かせてくれた人も、とっくに鬼門に入ってしまったから。
きらびやかな郭街の外れ、背後を森に守られる位置に、それは存在した。
振り替えれば、つい今し方抜けて来た色町が、そこだけ切り取ったような色彩を闇に灯している。
周囲は際限のない闇の中、死んだように沈黙した。
――そう、
もう、昼夜を問わず怯えることも、ほんの少しの明かりに神経を磨り減らすこともないのだ。
まるで、これまでの生活が嘘のように。
まるで、これまでの生活が悪い夢であったかのように。
憎悪と、少しの哀れみを込めて、その光景に背を向けた。
"あの灯は、アタシだ"
"アタシも、あの灯の一つなのだ"
巨大な月。
大きな森。
全ての闇を支配する、西洋の館――。
『綿羊館』は、ひっそりと息をひそめていた。
美しい煉瓦(れんが)造りのモダンなたたずまいは、誰もが平伏す権力者のようにも、誰もを受け入れる貴婦人のようにも見える。
繊細な細工。
何故このような場所に建っているのかすら疑問に思わせるだけの、あまりに立派な建物は、その力故に時間すらをも止めてしまっていた。
元は、さる有力者の別宅として使われていたものだったそうだが、敗戦と同時期、GHQに接収され、現在に至るときく。
逆光で、そのほとんどを闇に塗り込められた洋館。
その一部だけが、それはそれは鮮やかに照らし出される。
屋敷の中央。
眼下を睥睨するように備え付けられたエンブレムには、踊る羊の紋様が描かれていた。
ゆっくりと扉を開く。
現れたのは、眩いばかりの光、ひかり、ヒカリ――。
一瞬世界が真っ白に塗り込められる。
狭くなった世界に、朗々とした声が届いた。
心地よく鼓膜を震わせるそれは、広い屋敷に反響され、どこから響いてくるのかすら判別できない。
ぼぅっと熱を持った脳に、その声はあっという間に染み込んで、世界の境界線を溶かしていった。
「ようこそ綿羊館へ」
巨大なエントランスホールの中央に造りつけられた螺旋階段。
滑らかな曲線を描く中ほどで、"彼"はゆっくりと足を進めていた。
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