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「嫌ですわ。
何をひとりでペラペラと喋りはじめたかと思えば、何故アタシが貴方のような人に全てを話さねばならないの。
アタシは、この屋敷の主人に会いに来たの」
貴方なんかに用はない、と言いおわると、突如笑い声が響き始めた。
彼だ、と気がつくと同時、目の前の男は、満足したように口許をほころばせる。
くつくつと喉が鳴っている。
長めの髪を僅かにかき上げ、こちらを窺うように覗き込んでくる。
面に隠された瞳が、三日月型に細められた気がした。
「これはこれは。大層勝ち気なお嬢さんだ。
よいでしょう。案内します。
我が館の主――」
背が、
置いていかれぬよう、思わず追いかけた。
皮肉っぽい笑み。
その先にちらりと見えたのは、
あまりにも、
鮮やかな、
"アカ"――、
"羅紗綿です、"という声が、遠くなった自我の底に落ちて、音を立てた。
噂には聞いていた。
大東亜戦争敗戦直後のこの世で、まるで手のひらを返すように、かつての鬼畜白人の愛人となった女のことを。
羅紗綿とは、"羊"の異名。
そして何より、
西洋人の妾という、卑しい隠語。
"西洋人はその昔、船内に飼った綿羊を、日毎犯したという"
もちろん、ただの迷信。
俗説でしかないのだが、その根拠のない偏見が、"らしゃめん"という美しい響きに、一種の影を落とし込むこととなった。
表の者には嫌厭され、同種の我々にすら卑下される囲われ女。
"らしゃめん、"
国を捨て、女としての尊厳すらをも捨てた、美しき堕天使――。
高級な紅の引かれた唇から、細い煙が吐き出される。
晴れ着に近い鮮やかな着物には、様々な小物装飾が施され、眩い電飾をチラチラと弾いている。
生地、デザイン、着こなしにしても、どれを取っても最高級品。
この何十分の一すら価値をもたぬ着物でさえも、質に入れねば生きてはゆけぬ時代である。
蔑まれることで特権を保証されているアタシの目にも眩しく映る生活。
都は荒れ、焼き払われて、皆飢えの中でもがいているというのに。
吐き出された煙は、白い蛇。
するすると中空を這って、鎌首を擡げると、大きく口を開き否応なしに溶けてゆく。
彼女は、一息ついたとばかりにキセルを咥え直し、首をめぐらせると、うっとりとほほ笑んだ。
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