九月二十一日(晴)

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 妹は、水溜りに足を突っ込んだ。  泥が勢いよく飛び跳ね、彼女の靴を汚す。  僕は苦笑いしつつ、彼女を諭した。 「スイ?」 「なあに?」  赤いランドセルが、沼の濃い緑によく映えている。僕は何故かもう一度笑った。 「不用意に水溜りに飛び込むんじゃないよ」 「何で?」  この頃の子どもは、何で? を頻繁に使う。 「何でだと思う?」  よって僕はこう返すことにしている。 「わかんない。洋服が汚くなるから?」 「それもあるけれどね。もう一つは、ボウフラが死んじゃうからさ」 「なにそれ?」 「蚊の幼虫だよ」  スイは、えー! と声を荒げて、僕の理屈にケチをつけた。 「蚊なんて嫌だもん! 潰しちゃってもいいじゃん。兄ちゃん変!」 「あはは。そうかもね」  真夏――雨上がりの散歩を楽しむ僕らは今、沼を通っている。蝉が目の前に差し迫った死を嘆きながらも、懸命に生を伝えようと叫び続けるのを、聞きながら。  鏡面とは言い難い澱んだ沼の表面を、ゲンゴロウが急くように泳いでいた。アメンボも、カメムシもいる。恐らくタガメもいるだろう。  僕は思う。彼らと話が出来たらどれほど素晴らしいことか。  世界が緑色で、僕らの街が剥き出しの鉄骨ばかりだったあの頃。    あの頃を思い出して泣くのは、もうよそうと思う。
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