0人が本棚に入れています
本棚に追加
遠くからひぐらしの鳴き声が聞こえた。
その声に誘われるようにゆっくりと立ち上がり、ベランダの窓を開ける。
途端に雨上がりの夏の独特な熱風が部屋へと流れ込んだ。
クーラーの効いた部屋のほうが快適なはずなのに、私はその熱風に心地よさを感じ、2つの肺に夕暮れの酸素を流し込む。
息苦しいような生暖かい風が肺の中を泳ぎ、僅かに開けた私の口から8月の空へと逃げていった。
ふとベランダの隅に目をやると、蝉が一匹死んでいた。
「…嗚呼、無常。」
そう彼が呟いた。
「そんなところで死んだらお前も蟻に食われてしまうよ」
裸足のまま私は彼の元へ歩み寄り、仰向けになったまま嘆く彼をそっと掴んだ。
燃えるような赤い空を割る飛行機に続いて、飛行機雲が飴色に輝いている。
私はもう飛ぶことが出来ない彼を、その飛行機雲に沿ってゆっくりと飛ばした。
「もう飛べないのは悲しい?」
夕日に当たってステンドグラスのように光る彼の羽を眺めながら尋ねる。
「そりゃあ悲しいさ」
飛行機雲をじっと見つめながら彼はぽつりと呟く。
「…でも、もう鳴くのは疲れたかな」
淋しげに笑い、熊蝉の彼は自分を空へ投げてくれと私に頼んだ。
それをしたら彼がどうなるかは私には分かっていたし、恐らく彼も承知の上だろう。
だから私は何も言わず、幼い頃に飛ばした紙飛行機を頭の中で思い描きながら、彼を飴色に輝く飛行機雲に沿ってふわりと投げた。
「…嗚呼、無常」
ニュートンの原理を覆すこともなく、くるりくるりと地へと落ちる彼を見つめながら私はそう呟いた。
遠くからひぐらしの鳴き声が聞こえた。
最初のコメントを投稿しよう!