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病院に行こう。
そう思い立ったのは数分経ってからのことだったか、はたまた一瞬後のことだったか、どうにも感覚が曖昧で。そのせいか、霞み掛かった思考はぐるぐると頭の中に渦を巻くばかりで、体はすぐさま行動に移ることをしなかった。けれどいつまでも突っ立っている訳にはいかない。取り出した肉と野菜を冷蔵庫に戻してから台所を離れ、外出の準備の為にリビングを抜けて階段を登る。二階に着いてすぐ正面、自室の右奥にあるベッドの上に投げっ放しにしていた携帯と財布をジーンズのポケットにねじ込み、足早に部屋を後とした。そして何か忘れてないか、などと考えを巡らせながら階段に足をかけた、その時、僕の足ははたと止まった。何故と訊かれても分からない。けれど何かに誘(いざな)われるように動かした視線の先には、もう一つの扉があった。
――【Chihiro's room】
星形のシールやラメペンでデコレートされた何とも個性的な表札を掲げているそこは、間違いようもなく妹の部屋。
ふらりと、極自然に足がそちらを向く。手摺りから手が離れ、体が扉に引き寄せられていく。夏真っ盛りだというのに、木張りの廊下はひんやりと冷たくて。足の裏に冷気を感じつつ十歩ほど進めば、もう戸口は目の前にあった。
「…………」
得体の知れない意思に操られているかのように動いていた体がそこでようやく止まる。伸びかけの手が、ドアノブと触れるか触れないかという位置で固まっていた。勝手に入るべきじゃない、そんな常識が頭の中で声を荒げ、道徳の鎖が心身を呪縛していた。それはまるで――いや、とそこで思考を切り替える。何を躊躇う必要があるのか、と。妹は死んだのだ。この世にはもう僕を咎める者はなく、今ここに僕を止められる者もいない。それに、父の話によれば遺書はなかったということだ。もしかしたら妹の部屋に別の何かがあるかも知れない。それを見つけることの、一体何が駄目だというのか。
微かに残っていた理性を詭弁でねじ伏せるまでに数秒。改めてノブを掴み、回し、ぐっと力を込めて押した。直後。正面に付けられた窓から注がれる陽光に眼が眩み、思わず目蓋を落として顔を背ける。ふわりと、瞬間的に甘い香りが肌を撫で、鼻を擽った。数秒してから恐る恐る目蓋を持ち上げれば、そこには久方ぶりの光景が広がっていた。
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