何故か言えなかった⇔《イカナイデ》ノコトバ

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何故か言えなかった⇔《イカナイデ》ノコトバ

何故だかその日、嫌に磯の香りがしていたように思う。 【2説 黄泉人還し】 灰色だ。 いいや、色がある。 あまりに鮮やかな、緑、茶、黄金、黄土、青、藍――それらが奏でる不協和音。 忌々しい色たちを纏める、湿った空気。 暑かったのだと思う。 わたしは、暑いのが苦手だ。 何かれかまわず膚にべたりと張り付かせる汗も、皮膚の隙間から脳すら侵してゆく熱気も。 だから、夏は苦手だ。 だってわたしは、もっと寒いところにいたのだから、仕方がないというもの。 しかし不思議なことに、その記憶の中で、その不快な熱気を覚えてはいない。 記憶自体はこんなにも鮮明だというのに。 青と藍に移りゆく隔離された空には、大きな入道雲がたっているのだから、きっと暑かった筈なのだ。 しかし、そんな記憶はない。 都合のいいところのみを残して、忘れてしまったのかもしれぬ。 今では分かりようのないことだ。 ただ、何故だか磯の香りが鼻に付いた気がするだけだ。 記憶を混同しているのやもしれない。 何故ならわたしたちが暮らす"家"と呼ばれる場所のそばには、見渡す限りの山岳が広がり、海などかけらも見当たらないからだ。 わたしは思い出す。 むっとした熱気も、風の肌触りも思い出せなかったが、記憶はすぐに像をむすんだ。 手入れされた縁側。 風鈴が静かになびいている。 風はあるらしい。 ちりん、と微かな音が届いた。 遠くで、犬が鳴いている。 隣りの赤子が泣いている。 蝉が、一瞬の生を謳歌している。 そんな在り来たりな世界の端で、わたしはただ、俯いたまま畳の目を数えていた。 真新しい青々としたい草だ。 向かい合った気配が、僅かにみじろいだのが伝わってきた。
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