軍需工場だけが、まともな職場だった

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私が勤めた工場は、軍用の乾パンを作る工場である。 朝鮮人は、寮住まいだし、一部遠い所から来た日本人も寮に住んだ。 寮は、工場敷地内でなく、工場敷地に隣接した所にあった。 部屋は相部屋だったが、それは普通だった。個室は、病気になった時隔離するために確保されていた。 風呂は大浴場だったが、食品を扱うから、毎日義務づけられていた。風呂に入らないと、翌日の勤務を差し止められた。 朝は、水風呂で体中洗わないといけなかった。だが、風呂好きにとっては、毎日風呂にはいれる、それだけで素晴らしい職場だった。 他に休憩室があり、そこには一台ラジオがあった。なぜかラジオの選局は、一番に部屋に入ったものに権利があった。 選局っていっても、第一放送と第二放送しかなく、第二放送が朝鮮語だから、第二放送を聞きたかったのである。 日本人は少数派で、時には、私たちに向かって、あなたたち日本語が出来るんだから、第一放送を聞いてよ、私たち朝鮮語まったくわからないと、懇願した。 私たちは、第一放送でも差し支えなかった。どちらで聞いても、今から思えば嘘八百の大本営発表なんだから。わずかにある、韓国民謡の番組と、在日朝鮮人向けの激励番組が目当てであった。 在日朝鮮人向け激励番組たって、もちろん、反日番組のはずがない。日本の工場で働く皆さん、朝鮮人も忠君愛国で負けていません。今いる職場で立派に働いてください。かりそめにも、不忠の輩が出たら、朝鮮全体の恥です。 みたいな、説教である。 そのうち、第一放送を譲ってやることが、駆け引きの材料になった。あんたが持ってるキャラメルと交換とか。 日本人が軍国少女であったように、朝鮮人も軍国少女だったのである。 乾パンは、パンが適性語ということになり、乾麺ほうと名が変わったが、なにひとつ製法は変わらなかった。 私たちは、銃後の守りを固める女戦士とおだてられて、いい気分になっていた。 朝鮮で泥まみれになって働いても、働かない地主様に頭が上がらない。 私たちを誉める側は、誉め言葉はタダだ、おだてて使え、くらいの事なんだろうが、およそ、働くことを誉められたことがない貧乏出身である。 最下層の女工が「出世」に思えたのである。
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