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寮費はタダだった。
寮食は確か、朝2銭、昼・夜5銭だったと思う。これは、通勤者は弁当持ちだから、不公平緩和のためである。どうしてどうして、2銭なら、ごちそうである。
軍需工場は、軍の特配があるから、食料は豊富である。
朝は飯と汁に漬け物だけである。
昼夜は、もう一品つく。昼食は弁当仕立てになっている。
その一品は、煮魚だったこともあるし、芋だったこともある。旗日は、ややごちそうだった。
また、多少のメリハリをつける試みだろうか、芋ばかり3日続いて、4日目はライスカレーだったりした事もある。
ライスカレーは、それが洋食だと言うだけで、なんとなく華やいだ。
とりあえず、軍需工場は、食事は充実していた。米が配給になったのが1941年、1945年には、ほとんどの食料は配給になった。
米の配給は、工場敷地外では遅れに遅れ、代用の雑穀が配給されていたりしたが、軍需工場では、1944年春まで、米100%だった。以後、麦が混じり始めたが、麦だけの麦飯にはならなかった。粟・稗どこの話かだった。
その寮食を今復元したら、こんな粗末な食事しか与えずに働かしたのかと、今の子は驚くに違いない。
朝鮮から来た、最貧困層は、それを有り難がったのである。
一品と言った。
その一品が卵焼きで大根おろしで食べる日なんかは、王侯貴族の気分であった。
但し、朝鮮人だけではない。日本人も、寮へ入ってでも夜学で勉強したい子は、似たような境遇の子だった。
家にいれば、水くみから始めて、稗飯が炊き上がるまでに、二時間は必要である。
ここ、工場の女子寮では、退勤後、体だけ食堂へ持って行けば、もう、名札付きの盆の中に、夕食があるのである。
天国だった。
不謹慎かも知れないが、戦争が長引くことを願う気持ちさえあった。戦争が終われば、この天国は消えると。
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