死亡動機

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死に物狂いで勉強し、私は国家公務員試験を合格した。三年間の研修を経た後、実際に現場に出てみると、予想以上に艱難であった。 死にたいという人間と接するのだ。正気も乱される。マニュアルがあるとはいえ、とてもその通りには行かなかった。 しかし人間とは怖いもので、慣れという感覚が備わっている。その慣れとは、人間の持つ感覚の中でもひときわ異質なものである。 現場に立って仕事をしていくうちに、私は相手に同情も関心も抱かないようになっていった。 カウンセリングは面接官にも行われている。稀に、仕事と現実を混合し、現実でも無感情になったり、逆に猟奇的になる者もいるらしい。 私はその切り替えはできているつもりだ。仕事場ではお役所作業的にこなしているが、現実では友人と楽しく過ごすこともある。 ただ、小学校の頃の友人が面接に来た時はさすがに動揺してしまった。 ここを訪れる人間は後を絶たない。それほどに人は病んでいるのだろう。文明がいかに発達しようとも、埋められない孤独感があるのだろう。 そんなに死んで社会が成り立つのかといえば、案外大丈夫である。社会の中枢を担う人物は、地位や権力を捨てて死のうとは思わないし、ここに来る人間全てが死ねるわけではない。 審査に落ちる者も沢山いる。 自殺支援法とはあくまでも支援なのだ。助長ではない。死に相応しい者に死を与えるのであって、殺しているわけではない。 死ぬ気の人間の話を聞き、対策をうつのもこの省の役割である。 心配なことがあると言えば、この省に訪れる人が如実に減っていることだ。 理由は、当たり前にあることだという。当たり前にあると、人間は必要としないらしい。 100年以上前の人間が、当たり前にある命を軽んじ、自殺を欲した時と真逆のことが起こっているのだ。 死が近くに、当たり前のようにある今、生きたいと願うようになったという。 ある専門家曰く、あと10年もすればこんな省は要らなくなるらしい。 そうなれば私は失職だ。 そんなことになられたら堪ったもんじゃない……。 パイプ椅子でうなだれる男を見ながら、私は一抹の不安を覚えるのであった。
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