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私がそう言うと、サエさんはどこか憂いを含んだ微笑みを浮かべ、またキャンバスを彩る作業に戻ってしまいました。
キャンバスには、まっかなカカリアの花が、星屑のように散らばっていました。
私がカカリアの花言葉を『密やかな恋』だと知っていたら、何か変わっていたのでしょうか。
例えば、西暦4601年、彼女が16歳のときのバレンタインデー。
手作りチョコレートを持って出掛けたサエさんに公園に呼び出され、赤く目を腫らしたサエさんからチョコレートを受け取ったあの日。
「これあげる。」
「バレンタインチョコだよ。」
「好きだから。」
好きだから。
恋を知らなかった私は、その言葉の向こう側にいる誰かの影に、ひたすら怯えるしかありませんでした。
「ホワイトデーにお返しちょうだい!」
いえ、私が怯えていたのは、ジャスミンの香りの中で生まれた、新しい感情だったのかもしれません。
サエさんが新たに恋をして、結婚にまで至ったのは、23歳のころでした。
私はサエさんの物なので、彼女と一緒に家を出ました。
サエさんの夫は、真面目で面白みに欠ける性格でしたが、大変お優しい方でした。
仕事は作曲家で、よくサエさんへも曲を送っていました。
私は彼を尊敬の念を込めて旦那様と呼び、いけ好かない奴などと思ったことは一度もありません。
夫婦の間には、サエさんによく似た可愛らしい女の子が2人生まれました。
サエさんが子ども達の世話を私に任せて下さったおかげで、私の毎日は充実した、楽しいものになりました。
やがて、子ども達2人は結婚し、家を出て行きました。
そんなある日のことです。
「おい、トモ。」
廊下を掃除していると、旦那様に声をかけられました。
「はい。なんでしょう、旦那様。」
彼の顔には、憔悴の色が浮かんでいました。
「すまないが、ロープと踏み台を仕入れといてくれ。」
「……。何のために使うんですか?」
私が問うと、とんでもなく恐ろしい形相で睨みつけられ、怒鳴り散らされました。
「てめぇみたいなポンコツに何がわかるってんだ! てめぇらはどうせセンサーで人間の顔色うかがって表情作ってるだけだろうが! あ!? 悔しかったら空ぶクソガキよろしくケツからミサイルでも出してみろよ! 正義のヒーローよろしく人間救ってみろよ! できるか? できねぇだろうがこのポンコツが!!」
旦那様は私を殴りつけ、部屋にこもってしまいました。
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