2010年12月29日

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英会話科目が高校に増えている。 80年代、「日本人は英語が読めるが話せない」という反省に立って出来た科目である。 会話の科目の割に、活字だくさんの教科書である。だが、無駄な科目と思う。 この科目の割り込み前は、確かに「読めるが話せない」日本人を大量生産した。 そして、割り込み後は、英語が「読みも書きも話せもしない」日本人を大量生産している。 もとに戻した方がいい。 文法教育敵視政策は、文章を組み立てられないものを生み出した。 文法知識は、外国語が堪能でない者にとっては、子ども自転車の補助輪のようなもので、とにかく正確でへたくそな外国語を綴るための必需品である。 洒落た表現は、大学でプロを目指す者だけで良い。 語学以外の教育はそうなっているではないか。 野球教育はゴロは体で止めよ、手だけ出すような横着するなと教える。 自動車学校は、坂道発進は、サイドブレーキを引いてからと教える。 英語もそうあらねばならぬのに、直球のコントロールさえままならない者に、変化球を教えようとする。 さて、経験から話すと、日本人は英語が話せないのではなく、聞き取れないのである。聞き取れないから答えられないのである。 これを解決する方法は、ひとつだけ、あるにはある。 全授業が英語で行われる高校を作る事である。 アメリカンスクールがみんな英語ペラペラなのは、この事情による。 しかし、考えて欲しい。この方法は、英語が出来ないばっかりにニュートン力学法則さえ出来なかったA君が、日本語で高度な物理学を与えられたら、高校段階で特殊相対性理論の、ローレンツ変換式まで行けたかも知れない可能性を殺すことを。 自在に英語が使えるが、その英語で表現すべき何の専門知識も持たない者を作るのと、通訳さえ付けてやれば、世界の物理学会に席巻出来る者と、どちらが今の日本に必要か問い直して欲しい。 言語は思考のツールに過ぎない。 いずれか一言語が出来れば、思考に差し支えない。 明治の学者の献身で、日本語は、科学を思考するのに学術用語が足りない言語ではない。 日本語でどこまでも思考出来る。 明治の学者に感謝しつつ、翻訳漢語でみんな頑張って欲しい。
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