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おとんがアカになったわけ
おとんは故人である。余りキツいことは言いたくない。
おとんは、軍国少年ではなかったが、反戦平和を旗印にするアカでもシュギシャでもなかった。
ただの、親孝行な小作人の倅だった。
おとんは、本来なら、中学に進めるような環境ではなかったが、通ってた教会の牧師が、才能を惜しみ、学費出してやるから中学へ上げろという話になった。
中学だけ出したら、更に勉強したければ、師範はほとんどタダだし、成績さえ良ければ高等師範も良かろう、とにかく中学さえ出しとけば、選択幅は広がる。
と。
ところが中学では、やはり、自校を「名門校」にしたい偏差値かぶれ教師はいつの時代にもおり、県立師範合格も、一応進学率の一部ではあったが、あまり、お気には召さなかった。
ナンバースクール合格者を出せるか、と、陸士・海兵を出せるかだった。
ナンバースクールなんて、小作人の倅が(経済的に)無理と思ったか、おとんにまず陸幼を勧め、次に陸士をしつこく勧誘した。
おとんは、志望「陸経」(陸軍経理学校)だった。
経理将校を養成する学校で、偏差値はそこそこだが、知名度が低い。帝大・陸士が学校の格を決める時代である。
おとんは、おとんなりに考えたのである。
官費丸抱えの軍学校の中で、一番死亡率が低い学校を。
陸軍経理学校は、陸士を断る理由、身体条項不備なら、すぐ中学担任の許可が出た。
お国のために尽くしたいのは山々だが、背が低いのは、返す返すも残念と、大袈裟にパフォーマンスすれば、それが通った。
おとんは身体壮健であった。
そんなに死ぬのが怖いか!と、教師に殴りつけられた。
おとんは、志望を師範に変えず、三高と言う大博打に出た。
泥水すすり、草をはみ、高等文官突破して、県立中学の教師のクビひとつ、自在になる道を目指した。
三高なら、普通に京大に進学する。
それが、終戦と重なる。当時の京大卒なら、揃って赤である。
まして、小作人の倅、中学の教師に恨みあり、赤くなる肥料は揃っている。
中学の教師は、我こそ愛国の塊と自負していたかも知れないが、陸軍経理学校志願者を三高京大に追いやり、赤くしたのである。
おとんのそのまたおとんは、戦後社会党公認の村議を勤めた事がある。
童話部落を貧困のまま留めおいた旧体制に恨み骨髄、時代を考えれば当然である。
赤を恨む前に「貧困が赤を生む」と知って欲しい。
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