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菊江は、穏やかな表情をしていた。
筋だらけの体は冷たく、けれど口元に浮かぶ微笑は、ひたすらに穏やかだった。
「――洋介、お母さん、呼んできて、くれるか――…」
「お姉ちゃん」
「なんも言わんでいいから、起こして連れて来たげて」
じりじりと後退った足音を、耳で追いかける。
桃香は、介護用ベッドの脇にゆっくりと膝をつき、うっすらと朝日に照らされた菊江の白い顔を見つめた。
罪にまみれた老婆は、その穏やかな眠りの中で、幸福そうな微笑みを浮かべていた。
――あなたの、生、は。
こうして終わりを告げ、あなたはなにを得て、なにに満たされたのだろう。
確かにあるという天国に、あなたの席は用意されているのか。
恐々と、冷たく固い手に触れ、撫でる。
命の温度がない。
いつか訪れるだろうとは予測していた瞬間だった。
桃香は言葉なく、その手を撫で続けた。
閉じられたまま、二度と開くことのない瞼。
あなたはその眼で、あの夏の日に、襖の向こうから、見ていたのだ。
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