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市内へ買物に出掛けると、行列を目にした。本屋の壁に大きな幟が掲げられ、【○○先生 サイン会】と書かれていた。普段、読書を嗜まない僕なので、辛うじて名前だけは知っているという程度だったが、列に並ぶ人々は本を片手に持っている。丁度、列の方向が僕の進行方向というのもあり、顔くらい拝んでやろうと思って進んで行った。
少し歩き、列の最前列付近まで来ると、声が聞こえる。
「ありがとう、ありがとう」
作家の声だろうか、丁寧な御礼を述べているのが聞こえた。しかし、気味が悪いくらいに懸命であった。感動しているのか、なぜか涙声だったのが気になった。さらに進み、漸く最前列に辿り着き、歩を緩めて横目でチラリと作家を見ると、やはり作家は泣きながらサインをしたり、握手を自ら求めていた。並んでいる側は喜んでいるというより、むしろ蔑む様な笑い方だった。いつの間にか足が止まっていた僕は、その光景の違和感を知った。
「ありがとう、ありがとう。売らないと約束して欲しい」
握手をしながら、作家は懸命に訴えている。
「そういや、ここは…」
僕はふと、店の方に目をやると、そこは中古本販売の店だった。そうして事態を把握した時、不意に作家が僕の方を向いて目線が合ってしまった。僕は慌てて視線を下に落とし、足早にその場を去った。その道中、身体に悪寒が走って止まらない。
明日は我が身。
ミュージシャンの僕も、来週にはレンタルショップでサイン会を開くと契約会社から命令されている。
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