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キルフェヒルトの見たところ、家令のハンス、女中頭のテレジアから新米女中のグレートヒェンに至るまで家中一同皆壮健である。
お喋り好きの女中どもの談笑と、女中頭テレジアの怒声の掛け合いもまた北方出征以前と何ら変わりない。
出入りの商人達の朗らかな笑顔も、所領の村々の有力者からの進物や書状が山程届くのも、皇都のみならず田舎の所領に暮らす馴染みの貴族達から催し物の招待が届くのも、皆一切変わらぬ。
キルフェヒルトは自らの館に満ちる幸福が金甌無欠を以て保たれている事に満足を覚えた。
「なあ、キルフェヒルト。
母上様のご厚意に甘えて菓子を頼んでも良いか?」
キルフェヒルトとエリザベートは宴の刻限まで屋敷の二階のキルフェヒルトの私室で寛ぐ事とした。幼い頃からローゼンベルク邸に通い詰めているエリザベートにとっては、最早この邸宅は自宅同様に寛ぎ、羽根を伸ばせる安息の場所であった。
それ故、彼女は肩凝りを理由に大礼服の上衣を脱いで立襟のシャツに白い胴衣という姿でソファに身を委ねて寛いでいた。彼女はキルフェヒルトの飼い猫を膝に乗せて、白い指先で心地好い毛並みの感触を楽しみながら、ゆっくりと流れる無為な時間を楽しむ。
「構わん。
おい、ゼバスティアン。エリザベートに桜桃焼菓子(キルシェン・トルテ)を出してやれ」
鈴を鳴らして呼び付けた使用人に指図をしつつ、キルフェヒルトは葡萄火酒(ブラント・ヴァイン)入りの紅茶を口にする。
紅茶茶碗を卓に置いたキルフェヒルトは五百年前の貴族が愛用した玉葱形の白磁の香炉を掌に乗せてその造形の妙を観賞する。
かの香炉は骨董に関しては帝国随一の目利きと名高いキルフェヒルトが街の骨董品店で見出だした掘り出し物であった。
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