【序】

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「ごめんなさい、貴方とは付き合えません」  それはとても晴れた初夏の夜での事だった。  相手は後輩だった。少し人付き合いが苦手な所が有るものも、慣れた人間の前では優しい顔を見せる笑窪のチャーミングな娘だった。  一目惚れをして、ゆっくりと心を開かせて行って、休日にたまの散歩ぐらいならついて来てくれるようにまで成った。  しかし、現実はかくも無惨なものだ。  高宮の歯車はそれっきり大きく欠けてしまった。仕事でもミスは増え、元々言う程コミュニケーション上手では無い方だったが、今までとは比べ物に成らない程、そう意図的に同僚達から遠ざかるようにし、挙げ句の果てにはまともな食事すら摂るのを止めてしまった。  また、高宮が想いを打ち明けた相手がそれからあからさまに高宮と出会う事を避けているのも辛かった。  しかし、遂に上司に呼び出される時が来た。仕事の質もガタ落ちだったが未だにノルマはこなしてきた高宮だったが、それでも仕事の量が三分の二に落ちた事を思うと逆らえない命令が来るだろうと高宮は覚悟していた。  しかし結局は違った。この不景気に不況知らずな売り上げを誇る小さな会社だからか、或いは古き良きを引き継ぐ終身雇用を謳う会社だからか、彼に突き付けられたのは有給休暇消化の誘いと旅行会社のパンフレットだった。  入社して何年に成るか、確かに今まで有給休暇なんて病気の時以外使った事が無かった。しかし失恋もまた心の病だ、重大な病だ。ならば、病の為に有給休暇に使うと言うのと大差は無い。  そう決めるや否や、面白い事に高宮はその準備にエネルギーの全てを費やす事が出来た。いや、逃げ出したかったのかも知れない。この惨めな想いをさせた娘や何時までも同じ毎日を作り上げる会社の業務と言った猛々しい猛獣から、逃げ出したかったのだ。ただそれらが群れて襲い掛かる中をたった一頭で駆けて逃げなければ成らない哀れなレイヨウであった。  しかし、逃げると言う事には快楽が有るのだ。逃げ延びなければ成らないと言う事それは、デストルドーなのであろうか……?  その快楽が、どんな快楽なのかは定かでは無い。しかし、確かに今、高宮の胸の中には高鳴り踊る物が有った。
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