ご機嫌な暴君

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        いずみは、あまりいい噂を聞かないこの屋敷の次男、錬一のことが好きだった。   錬一は自分のことを覚えてはいないだろうが、といずみは幼い日を思い出す。 この屋敷に来たばかりの頃、いずみは子どもが入ることを禁じられた空中庭園の花畑に、四つ葉のクローバーを探しに迷い込んだことがあった。そのとき帰り道が分からずただ泣いていたいずみを、庭園を散歩していた錬一が見つけ、寮まで連れ帰ってくれたのだった。   いずみが6歳、錬一が8歳。   本来仕えるはずの主に道案内をしてもらうことがどれほどのことなのか、当時のいずみはあまりわかっていなかったし、『どうしたの?迷子なの?』といずみの頭を撫でて涙を止めてくれた錬一が、あまりに優しい顔をしていたので、いずみは錬一に出会うまでの庭園での孤独や、もうこのまま出られないんじゃないかという不安を一切払拭された。   その時の記憶や、錬一の手のあたたかさが、いまでもいずみを強烈に惹きつけている。     好きといっても、いずみのそれはあくまで憧憬だと、本人は信じている。しかしこの憧憬というのも、カエサルとブルータスのようなものではなく、それこそダンテがベアトリーチェと出会った日のような、限りなく慕情に近いものであるということには、いずみはまだ気づいていない。     「あ、もうこんな時間」   いずみは寮の屋上に並ぶ白いシャツたちを見上げて呟いた。当番が洗濯物を干し終わると、メイドたちは一度集まって明日の当番場所を決める。いずみは小走りで寮へ向かった。     もう三年も顔を見ていないが、きっと今でも彼は優しい顔で笑うのだろう。   見上げた青空にはためく白は、いずみにとても彼を思い出させた。    
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